知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年07月

清和院御門(京都御苑)

京都御苑が公園として整備されたのは明治以降のことで、それまでは約200軒の公家屋敷が建ち並ぶ公家町を形成していました。
明治2年の東京遷都に伴って御所周辺は荒廃し、明治10年、京都に還幸された天皇は、この状況を悼み整備の御沙汰を下されました。
これを受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが京都御苑の始まりです。

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京都市内の中心部にあって深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700メートル、南北約1300メートルの長方形で御所などを除いた約65haが国民公園として終日開放されています。

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源氏物語ゆかりの地(廬山寺)

廬山寺(源氏物語ゆかりの地)
現在の廬山寺は、豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。

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(大弐三位) 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(紫式部) めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

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四辻善成の「河海抄」に、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西頬、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。又、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆されたという説がある。

平野郷樋之尻口門跡

戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。濠の間には、大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。
樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方で、門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。少し東方の平野川に「樋之尻橋」の名がとどめられている。

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大坂夏の陣の元和元年(1615)5月7日、徳川家康の樋之尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。
予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外した時に地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在全興寺に祀られている首地蔵は、この時の爆発で吹き飛んできた樋之尻地蔵の首と伝えられている。

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河内音頭宗家初音家礎之地

大阪の夏を彩り、賑やかす「河内音頭」。この仏供養の盆踊り音頭が、今日、重厚な語りに加えリズミカルな旋律で全国津々浦々まで知られるに至っている。
それは、明治、大正、昭和、平成と継承された。我が国近代の生活文化形成のなかで育てられ、磨きあげられた民衆芸能でもある。

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近世以来の自由都市の伝統に抱かれた平野郷の地で、昭和のはじめ、初音家太三郎にひきいられた初音家五人衆によって、松山公園(現平野公園)を拠点にして現在の「河内音頭」の礎が築かれてから七十余年の歴史が刻まれるに至った。
今日、河内音頭は大阪を代表する盆踊り音頭から、我が国を代表する芸能としても高い評価がされ、それは河内音頭が平野郷の創造力あふれた潜在的な文化性をも伝承しているからでもある。

平野郷の黄金水

平野郷は元来、土地低湿で、飲料に耐えない井戸水のなかで、この井戸水のみは水質に恵まれ各戸に運ばれ平野郷の命の水となっていた。

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泥堂口地蔵(平野郷)

泥堂口地蔵
この地蔵堂は泥堂口門の傍らにあったもので、奈良街道の大坂、天王寺方面に通じる大門をもつ木戸口として、十三口の中でも重要な出入り口であった。

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戦国時代の平野郷は、町の安全を図って市街の廻りを濠と土塁で囲み、その壕の間に各方面に通じる十三の木戸口がおかれ門や地蔵堂があった。

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古河藩陣屋門(平野環濠都市遺跡)

この門は平野小学校にあった古河藩の陣屋門で、明治の廃藩後に平野小学校の表門として昭和2年まで使用されていたが、小学校舎新築拡張にともない、保存の要望があって昭和37年1月移築された。

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平野郷の藩政時代を示す唯一の遺構であり、その門扉は樟の一枚板である。江戸時代の平野郷は、およそ元禄7年(1694)を境にして前期は幕府領、後期は大名領地であった。
特に、正徳3年(1713)下総国古河藩主、本多忠良に給与されて以来、明治2年の版籍奉還までの156年間は、松平侯、土井侯と大名は変わったが古河藩付所領であった。
陣屋は土井侯の古河藩時代に設置され、平野郷をはじめ、摂津近在にある古河藩所領の行政事務を取り扱っていた。

山門(大念仏寺)

山門
宝永3年(1706)建立、棟行二間(3.6メートル)、梁行九尺(2.7メートル)、両脇に七尺(2.1メートル)壁落ち屋根を付けている。
「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都法鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆である。

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鐘楼
文化三年(1806)に改築された入母屋造りの屋根を付けた建物である。鐘は同時期に改鋳された名鐘で、従一位右大臣藤原家孝公の銘文がある。

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昭和13年に竣工した総欅造り銅板葺きで、棟行39。1メートル、梁行49.8メートルで大阪府下最大の木造建築である。

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摂洲平野郷

JR関西本線平野駅
現大阪市平野区平野は、その昔、摂洲平野郷と云い市街の周りを濠と土塁で囲んだ環濠都市であった。

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     春風や順礼共がねり供養     小林一茶

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一茶33歳の寛政7年3月8日、讃岐観音寺を発った一茶は、丸亀から瀬戸内海を渡り倉敷・下津井へ出て、赤穂・姫路・高砂を経て18日、大坂の黄華菴升六宅に着いた。
27日天王寺へ詣り吟行しながら平野を経て藤井寺・誉田八幡へ向かった。この時、大念仏寺に詣でた際に詠んだ句である。

大和橋

大和橋は、江戸幕府によって石柱・石桁・石板形式で架けられました。当時の様子は下記絵図でわかる様に、白川の川幅は現在より広かったことがわかります。
現在の橋は明治45年に架け替えられたもので高欄の改修と石畳舗装がされています。

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