知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年08月

銅門(小田原城跡)

銅門は、小田原城二の丸の表門で南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられており、江戸時代には馬出門土橋から城内に入り銅門を通って二の丸御殿や本丸・天守へと進むようになっていました。

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銅門(あかがねもん)は明治5年に解体され、現在の銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古写真・絵図などを参考に平成9年に復元されたものです。
銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で本来の工法で復元されました。

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天守閣に通じる登城ルート上に設けられ、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその呼び名がついたと云われている。
櫓門の梁;マツ   柱・扉;ヒノキ

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馬出門(小田原城趾)

馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋に位置する門で、寛文12年(1672)に枡形形式に改修され江戸時代末期まで存続しました。

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石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。

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小田原城跡二の丸東堀

小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ石垣を備える近世城郭として整備されました。

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二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、幅は最大で約40メートルあり、現在よりもさらに北に約60メートル先まで続いていました。又、西は常磐木橋、南は南曲輪の前までつながっていました。
現在の石垣は、大正12年の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したもので、江戸時代の石垣は現在よりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿でした。

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昭和30年頃の二の丸東堀

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二宮尊徳誕生の家

−二宮尊徳の教えと考え−
至誠・・・・・うそいつわりのない真心のこと 尊徳の生き方すべてをつらぬいている精神
勤労・・・・・自分や地域の向上のために自分にできる仕事にはげむこと
分度・・・・・自分の置かれた状況や立場にふさわしい生活をおくること
推譲・・・・・分度にによって生まれた力やお金を自分の将来や社会に譲ること

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二宮尊徳は、天明七年(1787)7月23日この家で誕生した。この家の最初の建築年月は明確でないが、おそらく尊徳の祖父銀右衛門が、兄の万兵衛から分家してその南隣りに建てたもので、それは寛保2年(1742)か、それより数年前と推定される。

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尊徳の父、利右衛門が銀右衛門から家督を譲られた頃の二宮家は、二町三反六畝余りの田畑を所有する中流農家で、この家は江戸時代の中流農民の住宅の典型的なものと言うことができる。

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尊徳が書いた「田地請戻之事」によると、父母をなくして一家離散の悲境に陷った際に、居宅、家財、諸道具、衣類まで売り払って金にかえたとあるので、その時、この家は人出に渡ったと思われる。

所在地 神奈川県小田原市栢山2065番地の1 (尊徳記念館)

二宮尊徳

二宮尊徳(1787〜1856)
   経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である
江戸時代後期の農政家・思想家で通称金治郎、尊徳は武士の名乗り。

(これと同じ像は、全国の小学校などに向けて約一千体、製作されたが戦時中すべて供出に遇い現在残っているのはこの一体だけ、この像は当時のメートル法普及の意図を反映して1メートルの高さに製作されている)

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幼少期の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家所領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は600余りにのぼる。

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内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳が紹介されるなど、明治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。

雲母坂(きららざか)

平安京の東北(鬼門)に位置する比叡山は、延暦4年(785)に最澄(767〜822)が山中に一宇の草堂を構えて比叡山寺(一乗止観院)を創建、さらに弘仁14年(823)には延暦寺として、後に「三塔十六谷・比叡山三千坊」などと称する大伽藍に発展した。
源氏物語 〜ゆかりの地〜
古来、都から比叡山への主要ルートの一つであった雲母坂は、都から勅使や修行僧が行き来し「勅使坂」「禅師坂」などとも呼ばれ『山洲名跡志』に「此の坂、雲を生ずるに似たり、よって雲母坂と云う」とある。

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『源氏物語』では、浮舟が、薫・匂宮との関係を清算するため宇治川に入水しょうと彷徨い、気を失って倒れているところを横川僧都に助けられ出家する(「浮舟」「手習」)。いっぽう薫は、行方不明になっていた浮舟を尋ねるために比叡山の横川僧都のもとを訪れ、小野にいる浮舟のもとへの案内を頼むが、僧都はすでに出家している浮舟に会わせることをためらい、薫の願いは果たせなかった(「夢浮橋」)。横川僧都は恵心僧都源信(942〜1017)がモデルとされている。

曼殊院庭園

曼殊院門跡

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小堀遠州好みの枯山水で、庭の芯に滝石があり白砂の水が流れ出て滝の前の水分石から広がり鶴島と亀島とがある。
鶴島には五葉の松(樹齢約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。
亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島ツツジは、5月の初旬、紅に映えて見事である。

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この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

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詩仙堂庭園

「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行くと、石段の上に「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は3階建の「嘯月楼」となっており、その右手には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋がある。

庭園造りの名手でもある石川丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春 のサツキと秋 の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水 (そうず)と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。


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詩仙堂HP

詩仙堂

詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。
凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩歌三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を石川丈山自ら書いて四方の壁に掲げた。
「詩仙の間」を中心としているところから呼ばれる。

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石川丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永18年59歳の時で、これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組合わせに意味をもたせた。
蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改訂したところである。

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建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。

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新緑も良いが秋の紅葉も見応えがありそうだ。

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石川丈山は、天正11年(1583)三河国(愛知県安城市)に生まれました。石川家は父祖代々徳川譜代に臣であり、丈山も16歳で徳川家康公に仕え近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親戚であった。
33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後として徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕え、その後母を亡くした丈山は54歳の時、京に帰り相国寺畔に居住し、寛永18年(1641)59歳で詩仙堂を造営し、没する迄の三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の務めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。
丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。

一乗寺下り松

叡山鉄道一乗寺駅

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ここは平安時代から交通の要衝で、この松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の松は4代目にあたる。

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江戸時代の初め、この地で剣客・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で、ここから東に約300メートルの所にある八大神社の境内に、決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。

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武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き寸前で止めたという説もある。
平安中期から中世にかけ、この辺りにあった一乗寺という寺が地名の由来となったが南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。
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