知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年09月

鉄の井(くろがねのい)

この井戸は、鎌倉十井の一つです。
かつて扇ヶ谷に所在した、新清水寺に蔵されていたと伝わる鉄観音像の首が、この井戸の中から掘り出されたことから、この名がついたと云われている。

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三河屋本店

三河屋本店は、明治33年創業の酒店で現在の建物は昭和2年に建てられました。伝統的な出桁造りの店構えは複雑に重なり合う屋根、長大な差鴨居などが重厚な雰囲気を醸し出しています。

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敷地の奥には、蔵や運搬用のトロッコも残されており近代の商文化を伝える貴重な建物です。

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若宮大路

鎌倉駅西口

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鎌倉駅西口から東口に廻って、暫く小町通りを歩きました。

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若宮大路
若宮大路は寿永元年(1182)、源頼朝によって造られた鶴岡八幡宮の参詣道です。中世鎌倉の都市づくりの中心とされた鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまで一直線に造られ、都市造りの基軸線となりました。

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『吾妻鏡』によれば、頼朝は日頃鶴岡八幡宮の参道を造りたいと願っていたが、妻北条政子の安産祈願として道造りをはじめました。頼朝自らが指揮し、北条時政以下の御家人達が土石を運んだと云われています。
現在は県道となり、鎌倉のメインストリートです。車道の両側には松並木が整備され往時を偲ばせています。
二の鳥居以北の道路中央の一段高い道は段葛と呼ばれます。

大巧寺(鎌倉市)

初め大行寺という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられている。
本堂修理中であったが、庭には花がたくさん咲いていた。

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インドはまゆう                           イワフジ

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キョウチクトウ                            あまぎのくさき

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   金糸梅

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北條早雲

北條早雲は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。
『北條記』によれば、明応4年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角に松明を結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後、小田原は、96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し東国一の都市に発展した。

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終生伊勢性を名のっていた早雲の出生地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢とも云われている。一時、室町幕府に随身していたが、のちに駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで、卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。
そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町造りを進めたという。小田原城には嫡男氏綱を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りを固めていたが、永正16年(1519)8月15日、88歳の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としては長寿であり、北條姓は二代氏綱から用いられた。

早雲は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えているが伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一箇条」において、早雲は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。

小田原城下町

江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋から約80キロの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊して小田原に到着します。

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町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためと云われ、当時は重臣屋敷が並んでいました。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていました。

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東は徒歩渡り(10月から3月の間は橋が架けられていた)酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、
又、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊で利用した本陣4軒・脇本陣4軒の8軒という数は東海道随一を誇ります。
小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのが宮前町と本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。

小田原城跡(大手門跡)

この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があった所です。この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原藩の家老級の屋敷が並んでおりました。

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それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永10年(1633)に、三代将軍徳川家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も現在の位置に移されました。
大手門の造りを元禄時代頃の絵図でみると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると外からの攻撃や敵の侵入を防ぐため、馬出と呼ばれる空間があり、さらに冠木門と呼ばれる門から桝形と呼ばれる四角い空間に入ります。この桝形は櫓門や石垣堀で囲われており厳重で立派な門であったことがわかります。

御茶壺曲輪跡(小田原城)

御茶壺曲輪は、箱根口から入る最初の曲輪で周囲を水堀で囲われていて、江戸時代には幕府御用の茶壺を宇治(京都)から江戸まで搬送する「茶壺道中」が行われ、小田原宿に宿泊する際に茶壺を収納した『御茶壺蔵』がこの曲輪内に設けられていた。

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御茶壺曲輪跡から銅門を望む

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小田原城址小峯橋(御茶壺橋)

この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在は石橋に架け替えられ「御茶壺橋」と言います。

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「御茶壺橋」という名は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家に御茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。
行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壺と購入代金が運ばれました。そして、御茶を詰めた復路の道中は、御茶が湿気ないように河川の少ない中仙道を通って江戸まで戻ったとされます。

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小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと云われています。

小田原城南曲輪西南二重櫓

小田原城は、明治3年に廃城となり、明治34年には二の丸内に御用邸が建設されましたが大正12年の関東大震災で石垣が崩落し壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。
昭和4年、銅門一帯には小田原高等女学校(小田原城内高等学校)や町立第二尋常小学校(城内小学校→三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが第二次大戦後は本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原球場が建設され城跡としての景観は失われていました。

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小田原城は北条氏の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められ、一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁、新堀土塁など史跡指定が進められ史跡公園として公開されています。

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