知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年10月

勝龍寺城跡

勝龍寺城跡は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたと云われる。
城は京都南西部に位置し、西国街道と久我吸を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。

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応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると織田信長からこの地域を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ落城した。

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この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで歴史とロマンスを秘めた城としても全国に知られている。

妙長寺と泉鏡花(鎌倉)

泉鏡花は、明治6年に石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退した。明治23年、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京したが紅葉を訪問する勇気がなく方々を彷徨した。明治24年に鎌倉に来て、妙長寺に二ヶ月間滞在し、その後、10月に紅葉を訪ね入門を許された。以後創作に励み小説家として認められ数々の名作を残した。
明治31年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。

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『星あかり』
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ッばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合わせの上の方をガタガタ動かして見たが開きさうにもない。雨戸の中は相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ。法華宗の寺の本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫学生が、四六の借蚊帳を釣って寝ているのである。(中略)
門を出ると右左、二畝ばかり慰みに植ゑた青田があって、向う正面の畦中に、琴弾松といふのがある。一昨日の晩宵の口に、その松のうらおもてに、ちらちら灯が見えたのを、海濱の別荘で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいった(後略)

九品寺(鎌倉)

鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために材木座に建立しました。
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山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は新田義貞の筆を写したものと伝えられています。

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ナニワイバラ

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和田塚

和田塚は、建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと伝えられている。大正末年頃の開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。

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江ノ島電鉄「和田塚駅」

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寸松堂

この建物は、鎌倉彫の店舗兼用住宅として建てられたもので、一階店舗部分のガラス戸、ショ−ウインド−などに近代洋風建築の技術が見られますが、全体としては寺院建築と城郭建築が合体したような特異な外観が印象的です。

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鎌倉文学館

侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として建てられたが、1910年に火事により失われ、現在の建物は侯爵 前田利為が1936年に洋風に全面改築した建築物である。渡辺栄治が設計し、竹中工務店が施工している。

戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたが、1983年に前田利建から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築をおこない、1985年10月31日に開館した。

残念ながら月曜日で休館でした。

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のり真安齊商店

のり真安齊商店(鎌倉・長谷)
安齊商店は、長谷界隈の商業地としての歴史を伝える貴重な建物です。石造の基礎や土間、揚戸など近世の商家を思わせる造りは創建当初の姿をよく留めています。店舗の奥には、昭和13年に建てられた倉庫兼住宅が残されています。

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萬屋本店

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与謝野晶子

       かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は
                美男におはす夏木立かな    与謝野晶子

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海紅豆

マメ科の常儿睫據▲屮薀献觚胸困韮況遏腺厳邵◆∋淦茲猟垢げ崕に深紅色の花を付ける。

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龍の口

当地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。
幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。

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菩提樹

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鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢餓疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を顕し幕府に奏上して法華経の教義に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪口の咎」に当たると解釈し、文永八年(1271)九月十二日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、この龍の口に連行した。

日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り処刑中止の使者を送った。

その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、九月十三日子丑の刻(午前二時)、日蓮大聖人を敷皮石(首の座)に座らせ斬首の準備を整えた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来たりて、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し刑は中止となった。
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