知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年11月

日の出紡績のレンガ塀

御坊で最初の近代的工場は、大正2年に操業を始めた日の出紡織で、御坊の産業革命の先駆けとなりました。すでに、明治の終り頃日高製材所・日高電灯会社の創立をみていたが、大正時代には日高紡績・日の出紡織松原工場・日高川水力電気株式会社等が設立操業された。御坊の産業革命の中心は、紡績と製材業で、日高川河口に集まった三紡績工場の従業員は大正末には2000人を越したと言われています。

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日の出紡織は大川英太郎(渋沢栄一の甥)、当時大阪紡績取締役)が関西の有力者とともに和歌山県日高郡(現・御坊市)に設立した会社です。
日高は紡績に適した温度湿度に恵まれ、木材運搬にも利用される日高川があり、交通の便も良い場所でした。大川はこれらの好条件に加え、東京や大阪の紡績工場に出稼ぎに行く女性が多いことから工場設置が労使双方の役に立つであろうこと、そして「素朴勤勉な気風が頼もしい」ことなどをあげて、日高を「全ての点において申し分ない」紡績工場地であると表現しています。
渋沢栄一は当初「日高紡績」と仮定されていた社名を、将来の事業拡張などを考慮して改名するよう大川に進言、その結果「日出紡織」の社名で創業することとなりました。1941年、日出紡織は和歌山紡織、出雲製織、錦華紡績との四社合併で大和紡績となり、本拠地を大阪に移しました。

被弾跡

この煉瓦塀は、太平洋戦争末期の昭和20年7月24日に米軍による空襲により被弾した跡である。当時、和歌山県御坊市のこの地には裁判所が建っており、爆弾はその前の消防井戸を直撃したと記載されており、御坊市内に現存している数少ない戦災跡地である。

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茶免の地蔵堂跡

この場所は薗字茶免という地域(和歌山県御坊寺内町内)で、下川が旧御坊村と薗浦との境界付近を流れ、「茶免」と呼ばれるようになったのは、昔、米があまりとれず租税が免除され茶を作っていたからとか、御茶好きの庄屋が役人と茶を飲みながら話をつけた結果、免税になったなどの説がある。

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かつて、この場所にはイチョウの大木とともに「茶免の地蔵堂」がありましたが、平成24年の下川河川改修事業に伴い周囲にあった浄瑠璃の名手豊竹君太夫(紀国太夫)の碑や水害の碑などとともに百メートル南に移転した。

日高別院のイチョウ

文禄4年、浅野家重臣佐竹伊賀守の尽力によって薗村と島村の荒れ地四町四方を得て堂宇を建立したのが始まり、文政8年(1825)に建立された本堂を中心に書院・庫裏・鐘楼・鼓楼・門が立ち並び、真宗寺院としては紀南最大の規模を持つ。

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日高別院の境内にあるイチョウの木は、幹廻りが約4.6メートル、樹高約十八メートルの巨樹で、文禄4年(1595)、薗坊舎をこの地に移したときに植えられたものと伝えられており樹齢400年以上と考えられ和歌山県指定文化財である。

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御坊寺内町中町

中町の町並み(和歌山県御坊市)

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御坊寺内町

和歌山県御坊市の寺内町は、本願寺日高別院を中心に形成された町のことで、江戸時代に商業が発展し、大変賑わいのある地域であったと伝えられています。現在は江戸時代から明治、大正、昭和へと時代の移り変わりが色濃く残る町並みが残されています。

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日高別院

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紀州鉄道(御坊寺内町)

JR御坊駅(和歌山県御坊市)

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紀州鉄道
JR御坊駅と市街地を結ぶ御坊臨港鉄道(後の紀州鉄道)が開業したのは昭和6年でした。このあたりは廻船業が盛んであったことから輸送・流通の重要性から鉄道に対して熱い期待と希望をいただいていたことが伺えます。
当時は美浜町の煙樹が浜まで線路を延長し、観光地として開発する構想が立ちましたが夢に終わり、現在は営業距離2.7キロの西日本一短い鉄道「紀州鉄道」だ。

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学門駅
御坊駅に着いたのが正午過ぎ、次の電車が1時間待ちなので学門駅まで歩くことにした。

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東町の町並み

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西御坊駅

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菅公御歌

      − 桜花 主をわすれぬ ものならば
                吹きこむ風に ことづてはせよ −   菅原道真


『桜の花よ、主人を忘れないでいるならば、太宰府にいる私のほうに吹いてくる東の風に伝言をしておくれ』

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      − 海ならず たたへる水の 底までも
                   清き心は 月ぞ照らさむ −    菅原道真

『海よりもさらに深く清水を湛えた水の底までも清く、澄みきっている私の心底を、ただ月だけが照らしてくれるだろう』

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菅公頌徳詩

菅公頌徳詩(かんこうしょうとくし)

『 冤罪左遷されて一身を虔(つつし)み詩を詠じ学を研きて天真を養う
                 誠忠滅せず志を埋むと雖ども遺徳長えに伝う文教の神 』

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菅原道真
長岡天満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられていまず。
菅原道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇多天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣にまで登りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は道真の出世を快く思っていませんでした。

昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き入れ、道真に九州・太宰府への左遷を命じました。

                    −東風吹かば匂いおこせよ梅の花
                                  主なしとて春な忘れそ−

八条ヶ池

長岡天満宮の東側に南北に細長くのびるこの池は、江戸時代に当地一帯を領した八条宮智仁親王が、寛永15年(1638)に境内の東側に池を開き、翌年境内周囲に堀を掘ったと云われています。

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池のほぼ中央にのびる中堤には、きりしまつつじが参道の両側に植わっています。
きりしまつつじは、「霧島ツツジ」の意で、九州南部にある霧島山にちなんで名付けられたものです。当地のきりしまつつじは野生に近い品種で、大きく株別れしており、高さ2.5〜3メートルあります。

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