知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2016年11月

神足(西国街道)

江戸時代の神足村
神足村は西国街道沿いに位置し、寛永10(1633)年〜慶安2(1649)年まで、後の高槻藩主永井直清の領地となり、直清転封後は幕府の蔵入地、女院料など京都代官支配地や寺社領が入り組む、「相給」の村となりました。「相給」とは、幕府が1 つの村を複数の領主に知行させることをいい、京都近郊の村々では天皇や女院の御料、公家や寺社などの領地が少しずつ複数の村にわたって設定されたため、この「相給」の村が一般的でした。

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『旧石田家住宅主屋』 国登録有形文化財
この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町屋で、規模が大きく江戸時代末期の町屋建築の基準となり、西国街道に面して建つ切妻造で、三面に庇を廻しています。
表構えに格子と出格子を並べ、大屋根下の白壁に二箇所の虫籠窓を開いています。玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙出しや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷などが残っています。
神足村の旧家岡本家一族の商家で、江戸時代には「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたようです。

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ガラシャおもかげの水(勝龍寺)

「ガラシャおもかげの水」

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この水は、細川ガラシャ(玉)が、夫忠興と勝龍寺城で過ごした日々、水面にその姿を映し出したでろう歴史のロマンに因んで名付けたとある。 (地下水100%水道水)

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勝龍寺城跡(供

東辺土塁と多門櫓
本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で二列の石垣が見つかり、その幅4メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。このような構造の建物は多門櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が収められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。
また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり井戸を設けていた。

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北門跡
本丸の北西隅から北の出入口が見つかっている。この出入口を囲む土塁は高さ2メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当たりを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。
この門から明智光秀が逃げ出したといわれる。

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沼田丸への通路
西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦部を深さ1.5メートル掘りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二箇所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。このことから、土塁の斜面に石を使って階段を造り土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。

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勝龍寺城土塁・空堀跡

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永禄11年(1568)に、足利義昭を奉じて織田信長が入京すると、それに従った細川藤孝(のちの幽斎)は、暫くして勝龍寺城に入りました。
藤孝は元亀2年(1571)に、信長の許可を得て勝龍寺城の改修を行い、ここに現存する土塁と空堀は、城下町を囲うように設けられた外郭線の一部で其の時の改修に伴うものと考えられています。

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天正8年(1580)に藤孝は丹後へ移封となり、翌9年には織田信長の近臣である矢部家定と猪子高就が勝龍寺城の城代となります。天正10年の山崎の合戦では、明智光秀の軍勢が陣取りますが、その後、廃城となりました。

忠興とガラシャ(玉)

明智光秀の娘玉(のちのガラシャ)が16歳で細川忠興のもとに嫁いだ城であり、丹後地方の宮津に移るまでの3年程、幸せな新婚時代を過ごした思いでの地、
輿入れから4年後、本能寺の変に続く山崎合戦では父の光秀がここで敗れ、落城、波乱の歴史を刻んだ。

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