知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年02月

南大門と太閤塀

南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現国立博物館一帯)の南門として築いたと伝えられています。

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それに続く築地塀は高さ5.3メートル長さ92メートルの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です。

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後白河上皇院政庁址碑

法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。
上皇になると天皇の住まう御所とは別の所に専用の「院御所」を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行われました。後白河院は上位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、その名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。

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構内は政治的な施設の「北殿」と常の御所と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿」に別れ、東山を背にする丘陵の地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。
永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に上皇はここに移り以後20年住まいとします。しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。

京都国立博物館

京都国立博物館は、1897年(明治30年)5月に開館しました。
主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っており、平常展示のほかに特別展が年に2〜4回行われている

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この煉瓦塀は構内の大きな煉瓦造りの陳列館や西側の正門とともに、片山東熊博士の設計により明治28年に完成したもので、いわゆる初期洋風建築の代表的な遺構である。
昭和44年3月、これらの建築物は、あわせて「旧帝国京都博物館」として「重要文化財」に指定されている。

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国宝・重要文化財などの所蔵品のほとんどは、第二次大戦後に文化財保護委員会からの管理換えや、博物館の予算による購入、個人等からの寄贈によって館蔵品となったものである。京都博物館設立の主目的は、明治初期に近代化の波にさらされ、破損・遺失の危機に直面していた京都一帯の寺社の文化財を保護するということであった。こうした事情から、戦前では京都を中心とした社寺からの寄託品が陳列の中心だった。現在も他の所有者からの寄託品は収蔵品の約半分を占めており、国宝・重文の件数も寄託品のほうが遥かに多い。

「耳塚(鼻塚)」

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(1592〜1598)にかかる遺跡である。

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豊臣秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
豊臣秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として今に伝えている。

観光案内所

観光案内所は駅に設置されている場合が多い。初めて行く所は観光案内所で地図を貰ったり交通手段を聞くのが間違いない。
車で行っていた頃は、下調べが十分でなかった時は一泊の予定で行っても伊豆下田や鎌倉から日帰りを余儀なくされたこともあった。睡眠不足疑いなく危険極まりない。

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身延山山頂展望台

身延山久遠寺総門

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樋澤坊の門

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身延山ロープウェイ奥之院駅

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「関東の富士見百景」に選定されている身延山山頂展望台(1153)からは世界遺産の富士山・駿河湾・南アルプス・八ヶ岳連峰・七面山など自然が織りなす絶景が満喫できます。

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身延山山頂からは、春と秋の数日「ダイヤモンド富士」を見ることができます。

小倉百人一首第六十五番


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     恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
            恋にくいなむ 名こそ惜しけれ
                                  相模

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−つれない人を恨み悲しんで流す涙で、乾くときもないこの袖さえ朽ちずに残っているのに、恋の噂で
 朽ちてしまう私の名が惜しいことですよ。−

老人が転倒

左の住宅から5メートルほど行ったところで両手にレジ袋を持った老人が突然倒れた。駆けつけて「大丈夫ですか」と尋ねると「大丈夫」と答えた。
正面の歩道橋の階段を上がって高野線を越えて10メートルも歩いたらスーパーがある、そこで買い物をして階段を上がれないのか20メ−トルほど歩いて踏切を渡ってここまで来たと話した。左の家の人が救急車を呼ぶより車で送った方が早いと言って車を持ってきて老人を乗せた。
老人は「情けない 情けない」と何度も言っていた。「生老病死」いかに生きるべきか、

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小倉百人一首第二十三番

     月みれば 千々に物こそ 悲しけれ
              我が身ひとつの 秋にはあらねど
                                     大江千里

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−秋の月を見ていると様々なことが悲しく感じられます。私一人を悲しませるために秋が来るというの
  ではないのですが。−

小倉百人一首第二十二番

     吹くからに 秋の草木の しをるれば
               むべ山風を 嵐といふらむ
                                  文屋康秀

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−山風が荒々しく吹きおろすと、たちまち秋の草木がしおれてしまう。なるほど荒々しいからそれで
       「あらし」、また山から吹く風なので文字通り「嵐」というのだろうか。−
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