知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年03月

岡崎城

岡崎城の起源は15世紀前半まで遡る。明大寺の地に西郷頼嗣によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の地に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

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天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城内で誕生し、6歳で織田信秀(織田信長の父)、8歳で今川義元の人質となり少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。

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元亀元年(1570)家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)信康が自刀したあとは、重臣石川数正、ついで本多重次を城代とした。
天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主になるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名をここを守らせた。

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江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。

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明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6〜7年にかけて取り壊され、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりとなった。

産湯の井戸

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城二の丸で生まれた。

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この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

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しかみ像(徳川家康)

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい自画像です。

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元亀三年(1572)十月三日、27000の大軍を率いて甲府を出発した武田信玄は遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には徳川家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像は、やがて戦乱の世を統一し世界にかん冠たる平和国家を創り上げる礎にんったと云われる。

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八丁蔵通り

八丁味噌(愛知県岡崎)
大豆そのものを麴化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、岡崎を代表する名産である。

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岡崎城から八丁(約870メートル)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており、見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。

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矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造によくて、また、気候及び風土にも適していると云われる。
江戸時代以降、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺だけでなく江戸にも多く積み出され、現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けている。

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「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば特よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正十八年(1590)、徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として称賛されてきました。

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室井滋さん
                                             
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                                  NHKの朝の連続ドラマ、 「純情きらり」が八丁味噌の蔵元が舞台となり、 八丁蔵通りには、ヒロイン有森桜子役を演じた宮崎あおいさんの手形の碑があります。

                                    -

円通橋

この石橋は「円通橋」と称して、池を「皓月池」と云い長さ約40メートル、幅約6メートル、橋脚、敷石板、欄干など全て花崗岩の切石を用いている。

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橋脚によって作られた二つのアーチが池水に映る姿は、あたかも眼鏡のようにみえうところから、通称「めがね橋」とも云われる。
安政3年(1856)12月に竣工し、当時は「奇巧ををつくした石橋」として、「花洛名勝図絵」にも紹介される。

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東陽坊

建仁寺方丈日本庭園

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東陽坊

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利休高弟の一人、真如堂長盛の好みといわれ、豊臣秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝えられる。手軽い屋根の構成が魅力ある草庵茶屋の外観を形づくっている。
内部は二帖台目の茶席一帖の合の間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる二帖台目席の最も優れた模範的な形といわれている。
茶室南側には豊太閤遺愛の鳥帽子石が据えられている。

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建仁寺(双龍図)

法堂

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双龍図

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この天井画「双龍図」は日本画家小泉淳作氏によって描かれ、縦11.4メートル横15.7メートルであり、麻紙と呼ばれる和紙に中国明代で最上の墨房といわれる「程君房」の墨を使用して描かれている。

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建仁寺(襖絵)



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海北友松によって桃山時代に描かれた方丈襖絵「雲龍図」

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山水図襖

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花鳥図襖

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建仁寺

勅使門(重要文化財)
銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝え、柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれ、元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものと伝えられている。

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三門(望闕楼)
大正十二年、静岡県浜名郡雄踏町山崎の安寧寺から移建したもの、空門・無相門・無作門の三解脱門、「御所を望む楼閣という意味で望闕楼と名付けられた。

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浴室
禅堂・食堂とともに三黙堂の一つとして定められ重要な修行の場でもあった。

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つくるよろこび(六原校)

六原小学校の前身である下京第28番組小学校は、明治二年九月十一日、区内門脇町において産声を上げた。明治五年七月、町組改編により下京第二十一区小学校と改名されたのを機に現在の地に移転する。

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この地は、近代、清水焼の生産地として多くの優れた陶の巧みを輩出してきた。この地域性を享受し、六原校は造形教育の先進校として、度々「つくるよろこび」を全国発信する。
平成23年3月、近在の学校との統合をはたし、開校以来141年の輝かしい歴史に幕を閉じた。

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