知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年04月

助郷

大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する時もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄七年(1694)に正式に実施されている。

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人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。

新宿御苑

東京へは何度も行っているが仕事意外では三度目と記憶している。4月8日、帰りの時間に余裕があったので新宿御苑に行ってみました。

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新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷地の一部であり、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交差する要所でした。
このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされています。

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現在、大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園、「玉川園」の一部です。

飯盛女

飯盛女(飯売女と表すこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。

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正保・慶安の頃(1644〜51)この飯盛女を置く旅籠が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。
以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。

田中吉政

田中吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(1590)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。

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関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。
又、矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。

寺ヶ池

古来より河内地方の農業は溜池灌漑水利が多く、寺ヶ池も百姓の切なる領に依り近世初期、奥の池と共に築造されて半田村の農業生活上に意義深いものがあった。
しかし、多年の間に土砂の埋没が甚しくなり、元禄年間・文政年間に大修築がなされ、その灌漑面積は八百余石に及んだ。近年に至り、堤の補強工事がなされ貯水量が増し、池水は三ヶ所の樋尻から分水され各自の田に配水されて今尚多数の農地を潤している。

因みに、我が家の家庭菜園も距離があるが寺ヶ池から配水されていると聞いている。

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寺ヶ池の沿革
面積 約24000平方米
水深 約7米
所在地 大阪府富田林市寺池台 南海高野線金剛駅から約8分

狭山池

日本最古の溜池「狭山池」は何代にもわたって人の手が加えられ現在に至っているが平成の大改修によって初めて周遊路ができた。
子供の頃、北堤には桜の古木があり、桜の咲く頃には毎年トンネルが出来た。その桜の木も平成の大改修の時、すべて切り倒された。

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石川や大和川といった水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。

今更ではあるが4月12日の桜、
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備考 
    狭山池の築造(616年)   推古天皇の時代
    行基の改修(731年)
    天平宝字の改修(762年) 
    弘仁の改修(819年)
    重源の改修(1202年)
    慶長の改修(1608年)
    元和の改修(1620〜1621年)
    元禄の改修(1693〜1694年)
    安政の改修(1857〜1859年)
    明治の改修(1903〜1907年)
    大正・昭和の改修(1926〜1931年)
    平成の大改修(1988〜2002年)

人馬継立(岡崎)

旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。

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公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。

三度飛脚(岡崎)

伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現代でいう郵便配達人にあたり、預かった通信書状などを入れた箱を担ぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。

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飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文三年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。

塩座(岡崎藩)

塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。
矢作川を上る塩舟は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もありしばしばトラブルもあった。

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上がってきた塩は審査の後、馬に乗せ替えられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶屋、魚座、煙草株などがあるが、商いをする者は座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。

御馳走屋敷

徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月、同年10月には田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。
吉政は矢作川に初めて橋を架け、東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で岡崎はその典型でした。これが二十七曲りで、しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。

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現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。
御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、御茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重に挨拶したという。
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