知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年04月

籠田惣門(岡崎宿東海道二十七曲り道標)

きららみち(明治二巳巳年十二月建之)

-

西本陣前角

-

-

西本陣跡

-

田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。

-

西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。

旧商工会議所

大正六年、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。
戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。

-

郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

-

岡崎宿三十六町二十七曲り

田中吉政(1548〜1609) 岡崎城主(1590〜1600)
当時、管生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。

-

東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末東矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。
天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎に入城し、城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導き入れ、矢作橋の架設に着手しました。慶長六年(1601)本多康重が城主となり田中吉政の城下町建設を引き継ぎ矢作橋を完成しました。

-

慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設し続いて連尺町・篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになりました。
城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮したものと考えられる。

-

二の丸御殿の井戸

岡崎城大手門(実際の位置は七間門付近)

-

岡崎城二の丸御殿の井戸
この井戸は江戸時代の石組井戸で、二の丸御殿の絵図には建物の北東側に2基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられている。

-

松尾芭蕉

     −木のもとに汁も鱠も左久良哉−
                             松尾芭蕉  

-

     元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において、
     風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。

徳川家康

徳川家康は岡崎城内で生まれ、幼少の頃は人質として苦難の道を歩み、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦大勝して、天下をおさめるに至った。
以後、持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えると共に、徳川幕政300年の基盤をも作り元和2年4月17日、75歳でこの世を去った。

-

-
記事検索
おきてがみ
blogram
blogramによるブログ分析
足あとを残せます。
後ほど訪問致します☆
Archives
  • ライブドアブログ