知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年05月

歌川豊広

      藤川の しゅくの 棒ばな みわたせば
                   杉の しるしと うで蛸の あし

「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでだこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。」

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歌川豊広
1774〜1829、江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。

西棒鼻

「棒鼻(ぼうはな)」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。

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藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。牓示杭(ぼうじぐい)(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。

問屋場跡(藤川宿)

藤川宿の問屋場は、宇中町北にあった。問屋場は宿場町では最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿ではここを御伝馬所」とも称していた。

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この問屋場については記録によると、
一、人馬継問屋場   一ヶ所   宇中町
     問屋      弐人     年寄    五人
     帳付      四人     飛脚番   六人
     人馬差     六人     小使    六人   とある。

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また当初の問屋場は、問屋場役人の問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に現在地に専用の建物を設けて事務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割を終えた。

高札場(藤川宿)

高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などの掲げ民衆に周知させるための場所として設置されていました。宿場にも設置され、各宿場の距離を測定する基点ともされていました。
代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は6枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。

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多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字や墨入れにも許可が必要でした。そのため、幕府や藩により「高札番」という役職が設けられ厳しく管理を行っていました。

藤川宿駒曳朱印状

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藤川宿本陣跡

東海道と藤川宿
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。
これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。
慶長6年に整備された藤川の宿は、品川宿から数えて37番目の宿駅でした。

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本陣跡
宿場にはさまざまな施設がありました。中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋などの休泊施設と隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。
藤川宿には当初二軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣としての役割を果たしていました。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。

本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。井戸は二ヶ所あり、中庭に面した座敷がありました。北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を山の眺望は江戸時代のままです。本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。

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藤川宿
中世における藤川の集落は山網川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されます。
東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。
そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村68戸を藤川宿東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。

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天保14年(1843)「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は1213人、家数は302軒となています。これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場、高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。

むらさき麦

俳人・松尾芭蕉は、
        −爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた−   の句を残しました。

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上記写真は、藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られており、これを「むらさき麦」と呼んでいました。
しかしながら、この麦は戦後作られなくなり、幻の麦となってしまいました。
平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、毎年5月の中旬から下旬にかけて美しい色を鑑賞できるようになりました。

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藤川宿

岡崎から藤川へ

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東海道五十三次、37番目の宿場として設けられた藤川宿の町並みは九丁二十間(約1キロ)で、天保十四年(1843)の宿内人口は、1213人、(302軒)で、本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は、大7軒、中16軒、小13軒でした。

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ここから赤坂宿までは二里九丁、岡崎宿へは一里二十五丁でした。
藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は、東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで十一宿が組合で、赤坂宿とともに「組合宿」の取締まりの宿場でした。

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さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連名で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていました。

末永雅雄博士

大阪狭山市名誉市民で、文化勲章受章者の末永雅雄博士は1897年に狭山池の畔に生まれました。
少年時代に狭山池須恵器の破片を採取した末永博士は1926年、29歳のときに狭山池改修工事に伴う中樋放水部の発掘調査を指導しました。

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この時に出土した古墳時代の石棺が、鎌倉時代の重源が伏せた「石樋」であると考察した。奈良県石舞台古墳、唐古・鍵遺跡、高松塚古墳等の発掘調査、古代の武器・武具に関する研究、古墳の航空査察、橿原考古学研究所の創設と後進の育成等、偉大な業績を積み重ね、日本考古学の礎を築きました。
限りない情熱を学問に傾注し、郷土狭山をこよなく愛し続けた末永博士は『狭山町史』の編さんや狭山町立郷土資料館の開設と学術指導に尽力されました。

狭山池中樋放水部の石棺群

狭山池石樋
この石樋は、奈良市東大寺の重源が建仁2年(1202)に伏せたもので富田林の「お亀石古墳」付近から運んできたと現地では伝承する。
石棺身の両端を切り取って並べ、蓋を置いて樋官に利用した。昭和初期池の改修前は中樋筋の水路中に亀形の蓋石だけが露れてあったので、これも昔からお亀石という。

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狭山池中樋放水部の石棺群
鎌倉時代に重源が伏せた「石樋」の樋管、大正末年・昭和初年の狭山池改修時に中樋放水部付近から出土した。古墳時代後期から終末期の刳抜式家形石棺と横口式石槨材を再利用している。
博物館内で展示している1点をはじめとし、家形石棺蓋2点、石棺身4点、石槨材1点を数える。石槨材1点は花崗岩、他はすべて凝灰岩(竜山石)である。石棺身のうち1点は底部に円孔を穿つが、その加工は途中で終わっている。中樋取水部の試作品であろう。

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石樋の蓋

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東樋(狭山池)

狭山池(東樋出土地点)
平成6年、平成の改修で上下二層の東樋が見つかり、上層東樋は慶長の改修(1608年)の際に設けられた取水施設で、ヒノキの板材を組み合わせた全長約73メートルの樋管がそのまま残っていた。

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ほぼ同じ長さの下層東樋は、飛鳥時代の池築造時に設けられた取水施設で西暦616年伐採のコウヤマキを刳り抜いて7本連結し、奈良時代にも樋官を増設する。

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大阪府立狭山池博物館で保存・展示している下層東樋と上層東樋は、平成26年、国の重要文化財に指定された。
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