知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年05月

皇居外苑

明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火、明暦3年(1657)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。

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江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに決めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

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明治維新以降江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれることになった。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

道標

江戸時代街道を旅する人々が便りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標はどんなに有り難い存在であったか想像できます。

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この道標は伝馬の脇本陣であった杉山家所蔵の物を複製したものですが、素材も当時そのままの岡崎産の良質な「花崗岩」を使用し、建っていた場所は東海道より足助街道へ行く道を示しています。

朝鮮通信使

江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節を派遣した。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団であったので沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。

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一行は海路瀬戸内海抜け大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった。

東京駅

東京へ初めて行ったのは卒業旅行であった。東京の記憶は薄いが二重橋で記念写真を撮ったことぐらいか。
鎌倉や東京で担任の先生に沢山の写真を撮って貰ったが当時はフイルムのカメラで何を失敗したのかわからないがあまり残っていない。
東京駅は東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、特に東海道新幹線と東北新幹線の起点となっており、東海道本線や東北本線など主要幹線の起点駅でもある。

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東京駅の歴史
1889年(明治22)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。
日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41)から建設工事が本格化し、1914年(大正3)12月20日に開業した。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられた。
1919年(大正8)3月1日に中央本線が、1925年(大正14年)11月1日に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していった。
1964年10月1日に東海道新幹線が開業し、1972年7月15日には総武地下ホーム、1990年3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅は順次拡大してきた。

長らく先延ばしされてきた建て替え計画は、1999年から2000年にかけて、創建当初の形態に復原する方針がまとめられ、500億円とされた復原工事の費用を丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することで、丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなった。
復原工事自体は、2007年5月30日に起工され、2012年10月1日に完成した。

お茶壺道中

寛永九年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壺道中、家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壺に、はなはだしく威勢を持たせた。

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宿場では百人の人足を出す定めがあり、多い時にはお茶壺奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壺は各宿場から大いに恐れられていた。
行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたと記録が残っている。

狭山池祭り

今年の狭山池まつりは例年になく家族連れが多い。催し物も多く野菜売り場や焼きそば・たこ焼きなどの食べ物など、人人人であった。
こんなに多くの人が集まったのは今までに見たことがない。大阪狭山市制30周年とのこと、大阪狭山市駅から狭山池に行く人が続いていた。

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向のテントの周辺は入る余地がないほどの人出だった。

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