知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年08月

たたり石

此の石は三嶋大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていました。
たたり(絡垜)は本来、糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。

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後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、絡垜が祟りに置き換えられる様になったと言われる。

若山牧水

若山牧水歌碑
          のずゑなる 三島のまちのあげ花火 
                  月夜のそらに 散りて 消ゆなり

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若山牧水は、九州宮崎県に生まれ、大正九年静岡県三島市の西隣の沼津市香貫に住み、三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ。

白滝公園(三島)

本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。
伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形を持つ魅力的な半島が形作られています。

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およそ10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士山が誕生しました。約1万年前の噴火では愛鷹山と箱根に挟まれた谷を溶岩が流れ下り三島付近にまで到達しました。「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は静岡県三島市北部の大地を作り出しました。また亀裂や隙間の多い溶岩は地下水の通り道となって溶岩の末端付近に沢山の湧水をもたらしています。
湧水は多くのせせらぎを作り出しました。源辺衛川や桜川などの用水も湧水とともに暮らしてきた人々の知恵で沢山の工夫があります。

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白滝公園の中に、表面に亀裂が入った小さな高まりがあります。富士山から流れてきた溶岩が作った溶岩塚という地形です。また、楽寿園を初めとして三島駅周辺には沢山の溶岩塚があります。

藍染院跡の溶岩塚

静岡県三島駅南口を南に藍染坂を少し下った左に三島溶岩塚がある。

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静岡県三島溶岩は粘性の小さい玄武岩の溶岩で、富士山から約40キロ流下してきたものである。
溶岩塚とは、溶岩流の表面の部分が固まっても、内部はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったものをいう。

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ここ愛染院跡にはこの繰り返しによって、溶岩の堆積がいっそう高まり、このように小高い溶岩塚が形成された。
この溶岩塚は三島溶岩流の末端であること、また、岩石や火山活動の研究に貴重であることから指定して保存することになった。
藍染院は室町時代に三島神社別当職勤めたことがあるとも言われている旧市内随一の大寺院であると推定され、当時はその藍染院の庭園の一部ではないかといわれているが確証はない。

朝日文左衛門重章屋敷跡(御畳奉行)

朝日文左衛門重章は、学芸・文化が開花した元禄4年(1691)から享保2年(1717)までの26年間にわたり、日記『鸚鵡籠中記』を著したことでしられる。この地はその屋敷跡である。

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自らの生活や見聞したこと、世相などをそのまま記した『鸚鵡籠中記』は、元禄の人々の生活ぶりを知る貴重な文献で、神坂次郎著「元禄御畳奉行の日記」で紹介された。
朝日氏は、尾張徳川家に仕える100石取りの武士で、御畳奉行を拝命したことにより、役料40俵が支給された。文左衛門は非番の日には好きな魚取り、芝居などに熱を上げ、物見高く城下の内外を往来していたことが記録されている。享保3年に45歳で他界した朝日氏の跡には名古屋コーチンゆかりの海部氏(120石)が明治まで居住した。

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周辺の白壁・主税・橦木町界隈は、中級武士の町から明治以降は陶磁器産業や企業家の住まいが集積する街となった。現在は名古屋城から徳川園に至る歴史文化エリア「文化のみち」の中核として、名古屋市の「町並み保存地区」となり、文化の香を伝えている。

主税町長屋門

この門は江戸時代のもので、当時の位置に残る名古屋城下の武家屋敷の長屋門としては唯一のものです。江戸時代主税町付近には尾張藩の中級武士の屋敷がありました。屋敷の一部に門を設けた形式のものを長屋門と呼び、中級武士の屋敷門としては一般的でしたが石高・役職などで規模や形式が違っていました。

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この門に付している出格子付き番所(武者窓)は武家屋敷のみに設けることが許されたものです。門の築年・創建者は不明ですが江戸中期の城下図には平岩氏・幕末の城下図には室賀氏の名前があり、明治時代には第三師団長官舎、昭和22年頃から43年頃までは佐藤氏の屋敷門として使用されていましたが、その後、塀及び長屋の一部が撤去され現在の大きさになっています。

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文化のみち二葉館

愛知県名古屋市旧川上貞奴邸
この建物は、「日本の女優第1号」の川上貞奴が居住していた和洋折衷の建物を創建当時の姿に移築復元したものです。

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文化のみちの拠点施設として、文化のみちの情報発信をすると共に、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかりの文学資料を展示しています。

川留め(大井川)

川留め文化
川越しや川留めにまつわる物語や数多くの俳句が残されている。物語では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に弥次・喜多が川越賃を値切ったりしながらやっとの思いで越す話がある。
また、浄瑠璃「朝顔日記」では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、其の時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の松を「朝顔の松」と名付けた。

大井川

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朝顔の松公園には、厳谷小波の「爪音は松に聞けとや春の風」や田中波月の「稗しごくとこぼれ太陽のふところに」の句碑がある。

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川越賃銭(大井川)

大井川を渡るには、川札(川越札・油紙ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから人足の肩や連台に乗り川を越した。
川札の値段は、毎朝、待川越が水の深さと川幅を測って定めた。水深は股通や乳通と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文であった。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76僉砲如∀督婿夕楔淦(約136僉砲魃曚垢叛醂韻瓩砲覆辰拭

現在の大井川

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島田市博物館

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備考
   川越に必要な川札の枚数は、
   肩車 川越人足の肩に跨がって越した。川札は1枚、常水以上は手張(補助者)1人がつくので川
                     札が2枚必要だった。
   連台越し 平連台(並連台) 一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計
                     6枚
                     二人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計
                     8枚
          半高欄連台(半手すり2本棒)
                     担ぎ手は、並連台と同じ4人で4枚と台札(川札4枚分)の計8枚
          中高欄連台(四方手すり2本棒)
                     担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚
          大高欄連台(四方手すり4本棒)
                      担ぎ手16人、手張4人に台札(川札の32枚分)の計52枚

島田大堤

天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流されました。

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その後、大堤完成までの確かな記録は不明、島田代官長谷川籐兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて復興が本格化しました。この頃(正保元年(1644))迄には完全な大堤が完成していたと考えられます。
これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約3.6メートル)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三千百五十間(5733メートル)と記録されている。

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