知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年08月

川留め(大井川)

川留め文化
川越しや川留めにまつわる物語や数多くの俳句が残されている。物語では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に弥次・喜多が川越賃を値切ったりしながらやっとの思いで越す話がある。
また、浄瑠璃「朝顔日記」では、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪が大井川のほとりで、川留めの悲運に泣くが、其の時、奇跡的に目が治るくだりがあり、当時江戸で大評判となった。このことから大井川河畔の松を「朝顔の松」と名付けた。

大井川

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朝顔の松公園には、厳谷小波の「爪音は松に聞けとや春の風」や田中波月の「稗しごくとこぼれ太陽のふところに」の句碑がある。

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川越賃銭(大井川)

大井川を渡るには、川札(川越札・油紙ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから人足の肩や連台に乗り川を越した。
川札の値段は、毎朝、待川越が水の深さと川幅を測って定めた。水深は股通や乳通と呼び、股通の場合は川札1枚が四十八文であった。また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約76僉砲如∀督婿夕楔淦(約136僉砲魃曚垢叛醂韻瓩砲覆辰拭

現在の大井川

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島田市博物館

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備考
   川越に必要な川札の枚数は、
   肩車 川越人足の肩に跨がって越した。川札は1枚、常水以上は手張(補助者)1人がつくので川
                     札が2枚必要だった。
   連台越し 平連台(並連台) 一人乗りの場合、担ぎ手4人で川札4枚と台札(川札の2枚分)の計
                     6枚
                     二人乗りの場合、担ぎ手6人で川札6枚と台札(川札の2枚分)の計
                     8枚
          半高欄連台(半手すり2本棒)
                     担ぎ手は、並連台と同じ4人で4枚と台札(川札4枚分)の計8枚
          中高欄連台(四方手すり2本棒)
                     担ぎ手10人、手張2人、台札(川札の24枚分)の計36枚
          大高欄連台(四方手すり4本棒)
                      担ぎ手16人、手張4人に台札(川札の32枚分)の計52枚

島田大堤

天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流されました。

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その後、大堤完成までの確かな記録は不明、島田代官長谷川籐兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて復興が本格化しました。この頃(正保元年(1644))迄には完全な大堤が完成していたと考えられます。
これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約3.6メートル)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三千百五十間(5733メートル)と記録されている。

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松尾芭蕉句碑

     −馬方はしらじ時雨の大井川−   松尾芭蕉

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       −さみだれの空吹きおとせ大井川−   松尾芭蕉

川越制度と川会所

慶長六年(1601)、徳川家康は東海道に宿駅伝馬の制を定め街道整備を行ったが、大きな河川には橋がほとんど架けられず旅人は舟か徒歩で渡るほかなかった。
特に大井川は渡船も禁止され流れが急で不慣れな旅人が渡るには危険であったため川越しの手助けを職業とする人々が現れた。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄九年(1696)に幕府により代官所を通じて川越制度ができた。
その管理のために川庄屋の役職と業務の拠点となる川会所が置かれた。

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川会所には川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役職を置いてその日の水深を計り川越賃金を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや諸荷物の輸送配分などの運営をはかる仕事が行われた。

〈川会所〉     −箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川−

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「川越制度は明治維新まで続けられていたが、明治三年に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された。」

札場

一日の川越しが終わった後、それぞれの番宿で「陸取り」が、川越人足たちから川札を集めて札場で現金に換えました。
なお、換金する際、当日の川越賃銭から二割が差し引かれ、川庄屋、年行事などの給金や川会所、その他の番宿の修繕費等に充てたり、島田宿運営の財源の一つとしても使われました。

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陸取り(おかとり)
川越人足のなかでも、実際の川越しには従事しない世話人的な立場の人です。「陸取り」は各番宿に数人いて、立会人から旅人を引き継いで越場まで案内し、旅人から川札を受け取って川越人足に渡しました。川札を現金に換え、人足たちに分配するのも陸取りの役目でした。

仲間の宿

荷縄屋
荷くずれした荷物をなおしたり、荷連台や馬に荷をくくりつける時に使用する縄を主として用立てたところです。
その他、草鞋や笠も売っていたといわれる。

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仲間の宿
主に年をとった川越人足たちの集まった宿です。ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組同士の親睦の場として使用されたと伝えられる。

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権三わらじ
江戸時代、川越人足が川越しの際、履いたわらじです。川底は滑りやすく渡る際の履き物には最適とされましたが、旅人が履いた道中わらじと異なり、わらじの縁にひもを通す作りになっています。これは川を越える途中でわらじに小石や砂利などが挟まっても、手を使わずに取り除くための工夫です。

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三番宿

川越人足がふだん詰めていた待機所です。川越人足は10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めました。各番宿には連台5丁が備えてあったと考えられています。
川越は各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足のそれぞれの番宿で50人ほど待機していました。

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「川越人足」
大井川の川越しに従事した人足たちで、15歳以上50歳以下の屈強な男が勤めました。川越人足の数は、江戸時代の元禄年間は150人程度でしたが、その後、増員され、江戸時代の終わりには約650人に達したと考えられています。
当時の大井川は水量も豊富で素人に務まる仕事ではありませんでした。川越人足になるためには12〜13歳頃から見習いとして、弁当や薪、炭を運ぶなど雑用から始めました。15歳以上になると川越しに従事しましたが、最初は川を渡ることもできず、何年も訓練を重ねた後に川庄屋から採用が伝えられました。

文政9年(1826)に大井川の川越しを経験したドイツの医師シーボルトは、急流を楽々と越す川越人足をその手記のなかで「半人半漁の男たち」と評しています。
金屋宿側にも川越人足がおり、互いに往きは客を運びますが、原則として帰りは自分たちだけで越えました。これは川越人足の共存を図ると共に、人命を預かる重要な仕事なので過重労働にならないようにとの配慮があったと考えられています。

マドンナリリー

マドンナリリー(ユリ科) 原産 ヨーロッパ
キリスト教では白いマドンナユリは純潔の象徴、19世紀に育てやすい日本のテッポウユリがヨーロッパに伝わりマドンナユリはほとんど栽培されなくなりました。
現在では世界的にも希少なユリとなりました。

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