知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年11月

平等院鳳凰堂(世界遺産)

京都南郊の宇治の地は、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。
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鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きだったが約半世紀後の康和3年(1101)の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修された。粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認された。

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庭園 は 中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園、(国指定の名勝)、平成2年からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されている。

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与謝野晶子(宇治その3)

   【総角】
       こころをば火の思ひもて焼かましと
                  願ひき身をば煙にぞする   与謝野晶子


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小倉百人一首第六十九番

        あらし吹く み室の山のもみじ葉は
                   竜田の川の 錦なりけり   能因法師 

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−激しい風によって吹き散らされた三室の山のもみじ葉は、やがて竜田の川に散り、ほら、水面を錦織の布のように鮮やかに彩っているよ−

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与謝野晶子(宇治その2)

   【椎が木】
       朝の月涙の如し真白けれ
             御寺のかねの水わたる時     与謝野晶子

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与謝野晶子(宇治その1)

   【橋姫】
       しめやかに心の濡れぬ川ぎりの
            立舞ふ家はあわれなるかな       与謝野晶子

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さわらびの道(宇治)

さわらびの道

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         妹らがり今木の嶺に茂り立つ
                嬬松の木は古人見けむ

この歌は、菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の宮所で歌われたもので作者は不詳、
「妻の家へ今着たという名の今木の峰に枝葉を茂らせて立つ松、夫の訪れを待つように、今も立っている松の木を昔の人もきっと見たことであろう」という意味で宮所は宇治神社あたり、今木峰は朝日山の古名とされている。

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大吉山展望台

与謝野晶子の歌碑が見当たらない、仏徳山(通称大吉山)に歩いて行き下山してきた人に聞いたところ東屋の左にあると聞いた。随分登ったところに東屋があり歌碑もあったが作者不詳の歌碑だった。
眼下には宇治川を挟んで平等院が見える。

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   『そらみつ 倭(やまと)の國 あおによし 奈良山越えて 山代の 管木(つつき)の原 ちはやぶ
     る 宇治の渡瀧つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳に 闕(か)くる事無く 萬歳(よろづよ)
      に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣帛(ぬさ)取り向けて われは越え行く 
        相坂山を』

「この歌の作者は不詳で、「大和の国の奈良山を越え、山城の国の管木の原、宇治川の渡し場、滝つ屋の阿後尼の原と続く道を、いつまでも欠かさず、永久に通いたいと、山科の石田の神社の神に幣帛を手向けて祈り私は越えて行く相坂やまを」 という意味である。

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総角(源氏物語 宇治十帖(三)

紫式部が11世紀に書いたといわれる源氏物語は全体で54帖からなっていますが、45帖から55帖までは、宇治を主要な舞台にしていることから「宇治10帖」と呼ばれています。


総角(あげまき)
八宮の一周忌がめぐってきた。薫君は仏前の名香の飾りに託して、大君への想いを詠んだ。
       総角に長き契りを結びこめ
             おなじ所によりもあはなむ

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大君は父宮の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意志が堅く、妹の中君をこそ薫君に委ねたいと望まれた。
薫君は中君と匂宮とが結ばれることによって、大君の心を得ようとされたが、意外な結果に事が運ばれてしまう。
匂宮は中君と結ばれたが気儘に行動され得ない御身分故、心ならずも宇治への訪れが遠のく。大君は「亡き人の御諌めはかかる事にこそ」と故宮をしのばれ、悲しみのあまり病の床につき、薫君の手あつい看護のもとに、冬、十一月に、薫君の胸に永遠の面影を残して帰らぬ人となった。

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宇治橋断碑

宇治橋の守り寺と呼ばれている橋寺は、推古12年(604)に聖徳太子の発願により秦河勝(はたのかわかつ)が建立したと伝えられる。宇治橋はしばしば流出し、弘安9年(1286)には西大寺の僧興正菩薩叡尊によって再興されますが、叡尊は宇治川の中州に十三重石塔を建立するとともに、橋寺で大放生会を営んだことから放生院とも呼ばれるようになりました。

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橋寺には宇治橋が初めて架けられたことを記念した石碑がありますが上の三分の一ほどが我が国の碑文の中でも最も古いもので、宇治橋断碑と言われています。

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宇治橋

千三百年以上も昔、大化二年(646)に初めて架けられたと伝えられる我が国最古級の橋です。その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害はもちろん戦乱に巻き込まれたことも数え切れなく、この橋はその都度架け直されてきました。
ここ宇治が、交通の重要な場所であり、また、宇治橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきました。

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宇治橋は古くより旅人が行き交わったところ、橋の袂には古くから茶店ができ、旅人をもてなしました。
徳川将軍家のお茶壺道中の一行を茶師たちが迎え、送り出したのもこの場所です。橋上の「三の間」では、毎年10月に行われる宇治茶まつりの「名水汲み上げの儀」が行われます。

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宇治橋より上流を望む

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現在の宇治橋は、長さ135.4メートル幅25メートル、平成8年に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど、宇治の名所ともなっています。
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