知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2017年12月

三室戸寺庭園

五千坪の大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、五月のツツジ(二万株)・シャクナゲ(一千本)・六月のアジサイ(二万株)・七月のハス・秋の紅葉など四季を通じ楽しめる。

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         山吹や宇治の焙炉の
                   にほふ時     松尾芭蕉

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源氏物語(宇治十帖(九)

『手習』
比叡山の吉川に尊い僧都がいた。初瀬詣の帰りに急病で倒れた母尼を介護するために宇治へ来た。その夜、宇治院の裏手で気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟であった。僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。

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意識を取り戻した浮舟は、素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。
やがて秋、浮舟はつれづれに手習をする。

       身を投げし涙の川の早き瀬を
              しがらみかけて誰かとどめし

浮舟は尼達が初瀬詣の留守中、立ち寄った僧都に懇願して出家してしまう。やがて都に上がった僧都の口から、浮舟のことは明石中宮に、そして、それはおのずと薫君の耳にも届くのであった。

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源氏物語(宇治十帖(二)

『椎本』
春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。
薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれていく。
八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深い頃、阿木梨の山寺で、寂しく静かに波乱の生涯を閉じられた。

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       たちよらむ蔭と頼みし椎が本
            むなしき床になりにけるかな

紫式部

紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治川の畔一帯に華やかな貴族文化の花が開いた王朝時代に登場した才女とは知られていても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない。999年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、「源氏物語」の執筆はこの頃から始められたらしい。

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やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の彰子の女房として仕えるようにと召し出され宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当時の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応報の人生観を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたことの生活を綴った『紫式部日記』(1008秋〜1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる『紫式部集』があり、当時の公家の様子を伝える貴重な遺作となっている。

夢浮橋之古跡

「源氏物語」は十一世紀初めに作られた長編小説です。作者は藤原彰子に仕えていた女房紫式部であると伝えられています。
物語は全部で五十四帖からなります。このうち最後の十帖は、光源氏の息子薫や孫の匂宮と宇治に住む三姉妹との実のらね恋の物語で、特に「宇治十帖」と呼びます。「橋姫」で始まり、「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」には、朝霧にけむる宇治川の流れが不可欠でした。
「源氏物語」は実話ではありませんが、いつの頃からか、物語の舞台はここであってほしいという人々の思いによって、宇治川周辺に宇治十帖の古跡が作られました。

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源氏物語(宇治十帖(一)

古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫神社は明治3年の洪水で流失するまでは宇治橋の西詰めにありました。交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。
宇治が主要な舞台となっている源氏物語宇治十帖の第一帖は、「橋姫」と名付けられており、橋姫神社はその古跡となっています。

【平等院参道】

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「橋姫」
「その頃、世に数まへられ給うはぬふる宮おはしけり。」と「宇治十帖」は書き始められる。光源氏の異母弟の八宮は、北方亡き後、宇治の地で失意と不遇の中に、二人の姫君をたいせつに育てながら俗聖として過ごしておられた。世の無情を感じていた薫君は、宮を慕って仏道修行に通い、三年の月日が流れた。
晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、
「あはれになつかしう」思い、
     橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしずくに袖ぞぬれぬる   と詠んで大君に贈った。
出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。

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橋姫神社は、
      高浜原発から75キロ、大飯原発から74キロ、美浜原発から91キロ、敦賀原発から98キ
      ロ、高速増殖炉もんじゅから96キロ。

県神社

県(あがた)とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織で、特に畿内にあった県は政治と祭祀に重要な位置を占めていたといわれており、当時の宇治が属したといわれる栗隈県(くりくまあがた)に社名の起源を求めることができます。

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祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)といわれ、永承七年(1052)に藤原頼道が平等院を建立した時に、その鎮守としたとも伝えられている。

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平等院多宝塔跡(復元基壇)

かつて平等院には鳳凰堂以外に多くの堂塔が建てられていましたが、その大半は廃れ、場所すら不明となっています。
この多宝塔跡は発掘調査によって発見され、同じ場所に鳳凰堂の基壇を参考に復元したもので、平等院に塔が建てられたのは、鳳凰堂建立の8年後(1061)で、建立者は藤原頼道の娘の郢劼任后
文献には多宝塔と記されていますが、発掘成果からは珍しい単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されています。

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詠み人知らず

       ちはや人宇治川
          波を清みかも旅行く人の立ちがてにする

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この歌の作者は未詳で、「宇治川の川波があまりにも清らかであるからであろうか。旅人たちはここから立ち去り難く思っている」という意味である。

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柿本人麻呂

          もののふの八十氏河の網代木に
                  いざよふ波の行く方しらずも

この歌は、柿本人麻呂が近江国より奈良へ帰る途中に、宇治川付近で作った歌で「宇治川の網代木で一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように、滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったいどうなったのであろうか」という意味、
網代は秋から冬にかけて魚をとる仕掛けのことで、杭を川のなかに上流に向かってV字型に打ち、杭の間に竹等で編んだ簀を張り氷魚(鮎の稚魚)をとるもので、この網代に用いる杭を網代木という。

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(宇治川に掛かる朝霧橋または橘橋を渡り橘島にこの歌碑がある。この歌碑は護岸改修中のため一時移動保管中である。)

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