知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年01月

旧前坊家住宅

旧前坊家住宅 (旧所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山二五七六)
この住宅は吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(金鳥居)のほぼ中頃、大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を務めたと伝える家です。

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この建物の建築年代は主屋(切妻造一部二階建)廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明らかでありませんが、解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、表側の四室の柱が、経年的からみて十八世紀に遡るものとみられる以外、主要軸部材は十九世紀中頃であり、また転入材もあるところからみて弘化年間(一八四四〜七)頃に主屋の大修理・改造を行い順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと考えられる。

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主屋は大道に北面して懸造(吉野建)で、離座敷は主屋後方に建て、この間を渡廊下で接続した逆コの字型の建物配置です。
移築前の屋根は母屋と離座敷の一部、庇の桟瓦葺き以外は波形鉄板葺きでしたが全て杉皮葺きに復原した他はおおむね移築前と同じです。

旧松井家住宅

この住宅は、元、奈良県宇陀市室生区上笠間にあった農家です。当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えられています。
この主屋の建築年代は解体中に発見された祈祷札から文政13年(1830)頃と考えられます。室生地区笠間は、当村山間を通る伊勢三街道の内、笠間越えと称する街道が、当地区中央部を東西に通っていました。
当主屋は、この街道を見降ろす丘陵の中腹に、南南東を正面に建てられていました。

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この主屋は、間口五間半、奥行四間の規模で、入母屋造りの藁葺きでふきおろした素朴な外観を呈しています。
間取りは向かって右半が土間、左半が居室4室です。土間部には表側の隅に馬屋(牛小屋)、この東側は風呂場が付設されています。さらに土間奥には板敷きのひろしき・カマド・流しを設けています。
居室の4室は表側2室、裏側2室で、表側の上手の部屋には床・仏壇・押し入れが付いています。また、吹き放しの縁が表裏につき、このうち、表側の西端に便所を設けています。尚、この建物の特色は、平面は間口方向に喰違う四間取りで、前座敷型三間取りから発達した間取りです。構造は表側の上屋筋に柱を立て、せがい風の小天井を造るが、背面の柱筋では差物・梁で受けて柱を抜き、居室と土間を広く取り込む構造法です。

旧岩本家住宅(宇陀 東山集落)

元、奈良県宇陀郡室生村黒岩にあって農林業を営んだ家で庄屋年寄りを務めたと伝えられています。建築年代は19世紀中頃です。

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室生村黒岩は、女人高野で有名な室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、黒岩川の中程で谷間の南斜面を利用した村落です。
また、畿内より伊勢に向かう伊勢街道が古くから地区を通っていました。岩本家はこの街道下にあって主屋は河岸段丘部を造成して建てられていました。

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この主屋は、間口7間、奥行き5間半、入母屋造りの茅葺きで葺きおろした素朴な外観を表しています。
向かって左手の土間には、表側隅に馬屋を設け、この奥側に「カマド」、流し、唐臼を備えて台所と作業場を兼ねた土間です。
右手の居室は六室ですが、表側を二分して、上手には前後に三室並び、下手には前側に六畳室が、後ろ側は半間土間に張り出して、長六畳二室が左右に並んだ間取りです。
この間取りは、三間取りに座敷三室を加えたもので、喰い違形の発展形式と考えられるほか、間仕切り箇所は開放的で、居室の表と右側に縁を付け、この外側で戸締まりするのは新しい形式です。
構造では表側をせがい造り、土間上を太い梁で半間間毎に架けるなど、この地方の特色をよく示しています。

旧八重川家住宅

旧八重川家は奈良県山辺郡で代々農業を営んでいたと伝えられている。当住宅の建築年代について確たる資料は欠くが建物の形式手法上からみて、19世紀初期の建築と考えられている。

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移築前の外観は寄棟造りで棟通りの瓦を葺き屋根は茅葺きで軒先まで葺きおろす素朴な外観を呈していました。
間取りは向かって右半が土間、左半は三室となっていましたが、解体時の調査によって当初は二室であったと判断されます。建物の復原は部材痕跡等によって建築当初の間取り、外観に復原されています。

旧萩原家住宅

この民家は桜井市下に所在していたが萩原家より寄贈を受け移築復原したものである。
萩原家は位牌木札によると元禄十六年(1703)宝永五年(1708)等の年号がみられ、その頃に建築されたと考えられます。
移築前の外観は草葺、切妻屋根の両端に桟瓦葺の落屋根をつけ周囲に庇を巡らしていた。

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平面の間取りは六間からなり、西側には懸造りの座敷と、北側には二階建ての離れ座敷が接続していたが、これらは後世に増改築されたことが明らかとなり建築当初の姿に復原した。
復原平面は下手三間を土間とし正面側に「うまや」背面側に「かまや」を設け居室部は正面側に「みせのま」「ざしき」背面側は「だいどころ」「なんど」の四間取りで「ざしき」には仏壇、とこ、脇床も設けている。

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この民家は葺降しの屋根、突止め溝の使用、土間、居室境の閉鎖等古式な手法を伝える貴重な遺構である。

旧赤土家離座敷

この建物は奈良県香芝市狐井に所在していた農家の離れ座敷であったが赤土家より寄贈を受け移築したものである。

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赤土家は下田村史によると、楠木氏の一族和田蔵人の子孫と伝えられている。この離座敷は八畳一間に「とこ」違い棚 出書院を付け、三方を縁で囲み、外観は入母屋造りの茅葺屋根で周囲の庇を本瓦葺としており、小規模でありながらまとまりのある建物である。
この離座敷の建築年代は十八世紀初期と考えられ、当初は香芝市狐井にあったものではなく他の地から移築したものと考えられている。

旧西川家土蔵

旧西川家土蔵  旧所在地 奈良県天理市二階堂北管田町166番地

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西川家は奈良・橿原間を結ぶ旧街道に面して建てられており、その昔「庄屋彦兵衛」と呼ばれこの地の庄屋を務めていました。西川家には元々、三棟の土蔵(米蔵・高蔵・北蔵)が建っていましたが、この土蔵は「高蔵」と呼ばれているもので食器・衣類等が収納されていました。

旧吉川家住宅

この民家は奈良県橿原市中町に所在していたが吉川家より寄贈を受け大和民族公園に移築復原したものである。
吉川家は元禄16年(1703)山之坊村の吉川家より分家したとの記録もあり、その頃に建築されたと考えられます。

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現在の屋根は当初建築された入母屋造り上屋を茅葺き下屋は四面とも茅葺きです。吉川家は国中(くんなか)の自作農家で喰違い四間取りを採用し民家の間取りの変遷を知る上で資料的価値の高い民家とされています。

旧臼井家住宅

旧臼井家住宅
この民家は、奈良県高市郡高取町上土佐にあった町屋で、臼井家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したものである。
高取町は古くから奈良盆地と吉野を結ぶ旧街道にあたり、高取町上土佐(旧土佐町)は植村藩の城下町で半商半農的な町場でした。

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臼井家はこの城下で、大手へ通じる道の北側に屋敷を構え、屋号を「伊勢屋」と称し藩の公用伝馬の役を務めるかたわら酒・醤油の販売を営むほか、大年寄も勤めたと伝えられている。

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この主屋は、正面左二間を格子構えとしながら農家風の正面・外観を持つのは、当時の城下町の性格を表しているようです。この建物は二階建で外部を全て土壁で塗り固め、貴重な品物や道具を納めた建物です。

主屋  切妻造、茅葺、桁行九間、、梁間三間、二面庇付本瓦葺、東北面便所付属
内蔵  土蔵造本瓦葺、二階建

旧鹿沼家住宅

「町屋集落」 旧鹿沼家住宅  旧所在地 奈良県大和高田市永和町 建築年式 十九世紀前半

この民家は、大和高田市にあった町屋で、鹿沼治三郎家から寄贈を受け、民俗公園に移築復原したもので、大和高田市は古来から東西に旧横大路(初瀬街道)と南北には下街道の主要路が交差した要所で、近世では宿場町・商業の町として発達した地域です。

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鹿沼家は横大路の北側に屋敷を構え、代々米屋治兵衛を名乗り米屋を営んだと伝えられています。
この主屋は、切妻造りの二階建てで、正背面に庇を付け屋根はすべて桟瓦で葺き、表側の角太格子や、二階の出格子、両側の袖壁など町屋特有の姿を表しています。

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二階は物置で箱階段で上り下りをします。二階の軒は高く、小屋組に登り梁を採用して空間を広く取り、正面に出格子を取り付けるこの形式は奈良県内で最も古い事例にあげることができます。

主屋  切妻造、桟瓦葺、二階建、正背面庇付、背面角座敷
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