知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年02月

なつかしの映画ロケ地(一身田寺内町)

「江戸の朝霧」
監督     池田富保
出演     市川右太衛門・羅門光三郎・高山廣子
撮影場所  寺町通り・常盤橋・毛無川周辺

幼くして学才に秀でた麟太郎(後の勝海舟)を貧しくも誇り高く育てる吾子一筋な父性愛を描いた作品

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太鼓門(専修寺)

この門は、最上階に直径1メートルほどの大太鼓が吊り下げられていて、専修寺に法要があるとき、この太鼓が打ち鳴らされて法要の進行役を務めます。

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昔は、この太鼓で町の人々に時を知らしていました。その当時に使われた太鼓は今では皮が破れて使われていませんが、胴の中に享保14年(1728)に作ったとの墨書銘があります。

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専修寺唐門

如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820年)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。
屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏み出した形になっているのは注目さ れる。

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材料はすべて欅造りで、厳しく吟味された品位の高いものを入念に施工している。腰長押と飛貫との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼた んの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、全体に華麗で複雑な構造をした門である。造営時に配られたと思われる木版刷りの 立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺と本瓦葺の2案が考えられていたらしい。

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専修寺山門

御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石橋や釘貫門、左右にある玉保院、智慧光院、さらには古い町並みと一体になっている。
二階建てで、間口20メートル、奥行き9メートル、高さ15.5メートルの門である。正面の柱間は5間で、そのうち中の3間に扉を付けて入口とし、挿肘木(さしひじき)という肘木が斗(ます)にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。

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全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺山門(応永12年(1405)の建立・国宝)とよく似ており、裏側で三間分だけ屋根が張り出している点(裏向拝)は他に例をみない珍しい手法である。
瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)頃から取りかかり、宝永元年(1704)頃に完成したものと考えられる。
柱など部材の傷みや傾きが激しくなったため大規模な修理が行われた。

専修寺釘貫門

釘貫門とは、柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことで、町の出入り口に設けた木戸のようなものを示すこともあります。

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現在は、この山門前の釘貫門だけが残りますが、宝暦年間(1751〜1763)の木版絵図には、他に三ヶ所の矢来(釘貫門)が描かれています。
この釘貫門は、道路を挟んで同型同大の東西二棟からなり、石橋と釘貫門の対向する親柱には、高欄が設けられていた痕跡が残っています。双方を繋ぐ構造や開閉の装置を持つものではありませんが、専修寺では釘貫門と称されています。

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釘貫門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、堀上に架けられた石橋と併せて聖俗の結界をなす装置となるもので、本来の形式を留める現存する貴重な例です。

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この石橋は、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる橋です。堀上に円弧状の橋板11枚を並べた石造りの反り橋で、橋の南側の橋詰めでは、高麗は親柱から水路に沿って折れ曲がりますが、東側では一部部材を欠き、その一部は近年新材となっています。
製作時期は、『高田史料』第3巻(松山忍明編)の宝暦10年(1760)編に、「三月八日、山門前石橋成る、初渡式」との記述があることから、その建立時期が明確です。

一身田寺内町の町並み

「一身田」(いっしんでん)は珍しい地名ですが、その由来には諸説あり、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に対して特別にその身一代に限って与えられた田からきたとも、律令制度の「三世一身の法」で与えられた田からきたとも伝えられています。

人々がこの一身田に集落を形成し出したのは寺内町が生まれる前のことであり、それを示す最古の資料として、一御田神社(いちみたじんじゃ)の棟札に嘉吉3年(1443)という記録が残されており、そのころは農村集落であったと考えられています。

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一身田が大きく変わったのは、寛正5年(1464)、真宗高田派僧真慧が、東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院を建立してからで、この無量寿院が現在の専修寺の前身です。
その後、栃木県の高田にあった高田専修寺が戦火にみまわれて、僧真慧が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となりました。

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一身田寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、天正20年(1592)の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられます。

16世紀の中頃までは、一身田寺内町は現在の区域の半分足らずの大きさでしたが、万治元年(1658)に津藩の2代藩主である藤堂高次の四女いと姫が専修寺の門主に輿入れするにあたり、当時の専修寺の西側の土地を寄進したことによって、現在の寺内町の形となりました。

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明治時代になり、宗教団体が境内と墓地以外の寺領を持ち統治することを禁じる法律が制定されたため、専修寺も多くの寺領を失いました。そして、明治7年(1874)には、赤門・黒門・桜門の三つの門が全て売りに出されるなど、寺内町も大きく変わっていきました。
しかし、今もなお、一身田寺内町では専修寺を始めとする多くの寺院や古い民家などのたたずまいが、往時の面影を残しています。

武野薬局(一身田寺内町)

一身田寺内町の桜門の際である場所で約200年以上前から薬屋を営んでいる老舗です。
店の部分は老朽化により平成17年に建替を行い、昔ながらの町並みに合った木造軸組伝統工法によって建築、床の間・建具・柱は前の物をできる限り使用している。
奥座敷は大正初期の建築である。

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一身田寺内町桜門跡

寺内町一身田の西端にあって、京都方面への出入り口になっていた門で、門の外に桜並木があったので桜門と呼ばれていた。他の二つの門と同じように明六つ(午前六時)に開門し暮六つに閉じられ一身田の治安を守っていました。

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一身田寺内町の環濠

一身田寺内町を特徴付けるものに環濠がある。各地の寺内町の環濠が埋められている現在、一部改修されているとはいえ、ほぼ完全に残っている所は一身田の他にはあまり例がない。

JR一身田駅(三重県津市東部)

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元禄十三年(1700)の古図によると環濠の規模は次のようになっている。

一、東 長百九拾九間半、堀幅貳間半、堀之外三尺之道、土居壱間
一、西 長貳百三十貳間半、堀幅(無記入)、土居三間、堀之外道幅壱間
一、北 長貳百四拾間、堀幅三間、土居三間、堀之外道四尺
一、南 長貳百六十五間半、川幅三間、土居幅三間、三尺之水通し有り、堤鋪三間

ここに記された濠の長さは、現在の環濠の規模と完全に一致する、ただ、濠幅はそに後の改修等でかなり狭くなっている。また、濠に沿って一間ないし三間の土居(堤)があったようであるが寛政四年(1792)の惣絵図では、専修寺境内の西側と北側で濠に面する部分だけに描かれている。この部分の土居は現在もその形跡を留めているが、他は早くから屋敷の中に取り込まれていったものと考えられる。

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綿業倶楽部

東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に、1931年12月、日本綿業倶楽部の施設として建設された。

近代の日本を代表する施設として国際会議の場として数多く利用され、1932年3月には リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。

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1945年3月の大阪大空襲で船場オフィス街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は各部屋の窓にワイヤー入り耐火ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけで殆ど無傷であった。

同年7月5日、大阪師団管区司令部はこれを徴用となし、倶楽部は休館のやむなきにいたって寺田ビルを事務所とした。日本敗戦後の同年10月11日、占領軍はこれを全館接収し、1952年5月23日返還するまで使用した。

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設計は渡辺節らによりなされ、外観はアメリカのオフィスビル風でさりげないが、クラブ建築らしく内部は充実しており、室毎に異なるスタイルで装飾されている。ジャコビアン様式(イギリスの初期ルネサンス風)と言われる2階談話室は全室中最も豪華な部屋で、映画やドラマの撮影などにもよく使われる。非財閥の民間の建物でありながら、内外装の細部に至るまでのデザインや最先端の設備の導入がなされるなど、「最高」を求めた造作になっている。
【館内見学】
倶楽部会員と同伴する場合は無料、一般は毎月第四土曜日第1部は11時から昼食付き2600円 第2部14時30分から500円 予約制となっている。
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