知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年03月

日本最初の市電・中書島駅

日本最初の市電(中書島駅)
我が国最古の電車路線であった伏見線(塩小路高倉〜中書島間)7.1キロと稲荷線(勧進橋〜稲荷間)0.7キロは昭和45年3月31日限りをもって廃止となった。
伏見線の歴史は長く、最初は京都電気鉄道株式会社の手によって塩小路東洞院から油掛町間が明治28年2月1日に日本初の路面電車として開通し、大正3年3月31日と同年8月25日に延長部分が開通して中書島に達した。
一方の稲荷線は明治38年8月4日に開通したが、両線とも大正7年7月1日に京都市が買収し、大正12年6月26日から狭軌から広軌に変更して運転した。この路線は由緒ある路線だけに専用軌道区間や酒蔵の並ぶ風格のある街並みを走っていて人気があった。

中書島駅(京阪電車)

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「中書島」
伏見城時代、脇坂中務小輔安治の邸宅があったと伝えられている。脇坂氏の官職名「中務」が中国風には「中書」と呼ばれていたので、その名から島名がつけられた。伏見廃城後は、芦萩が生い茂る島となっていたが、元禄時代、時の伏見奉行であった建部匠頭政宇が再開発して伏見の繁栄をもたらした。昭和初年にこの島の周囲をめぐる濠川の半分を埋め立てて住宅地として利用された。戦後「今富橋」から南部分が全面的に埋め立てられて島としての景観は失われた。虚子の句に「花人の落ち合う駅や中書島」と詠まれ、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもある。

長野宿(伊賀街道)

津と伊賀上野を結ぶ藤堂藩の官道であった伊賀街道の中間の宿場で、藩士や旅人で賑わった。近くには戦国時代まで長野城があった。
長野峠の傍らには氷田があり藩に氷を納めていた。

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津駅から長野まで路線バスで約50分かかるが意外と退屈しない。近鉄の津新町駅前から乗れば近道だが特急は止まらない。

伊賀街道

伊勢国と伊賀国にまたがる伊賀街道は、津から橡(とち)ノ木峠とも呼ばれた長野峠を越えて上野に至る全長約12里の街道で、伊勢・伊賀二国の大名藤堂高虎の移封後、津(本城)と上野(支城)をむすぶ最も重要な官道として整備された街道である。

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この道は上野経由で伊勢に向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、伊賀方面から種油や綿などが運ばれた伊賀・伊勢両国の経済・生活の大動脈としての役割も担っていた。

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ふれあいの像

この像は、人と人とのつながりの原点である母と子を主題として、その愛情に満ちた語らいの情景を彫刻として表現したものです。
ほのぼのとしたふたりの姿に、親から子、子から孫へと、文化や伝統などが受け継がれていく様子と、未来への明るい希望を象徴して”ふれあいの像”と名付けられました。

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部田の常夜灯

津偕楽園公園

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江戸時代この常夜灯は、もともと塔世橋の南詰めにあり「部田の常夜灯」と呼ばれ親しまれたが後に四天王寺の藥師堂前に移され、その後、偕楽園公園内に移され現在に至っている。
元治元年(1864)刊行の「五十世作楽」に描かれた絵には、津の城下町の北の入口にあたる門のそばに、この常夜灯が描かれています。

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石柵で囲まれた中、石垣の上に春日型の常夜灯が建っていて、高さ3.5メートル、竿には「奉献」「天保元年庚申十二月建」と刻まれています。
石でできた常夜灯にしては細工が細かく、狐格子や笠屋根の裏には垂木模様があり、中台と台座の正面・側面それぞれ異なった姿の龍が力強く浮彫にされています。また、台座や基壇の石も大きく立派なものです。基壇の側面には茶屋町中、西浦中、など地域の願主や世話人の名前が刻まれています。
常夜灯を作った石工については「洞津、池宮信之 謹鑿之」と刻まれています。三重県内の常夜灯は、おかげ参りを機会に建てられたものが多いですが、この常夜灯も天保元年のおかげ参りの年に建てられたもので、旅人の安全と町内の安泰を祈るものでした。

D51型499号

明治5年9月12日、日本で初めて鉄道が開通し、蒸気機関車が走りました。大正8年には国産の電気機関車が生まれ、昭和7年にディーゼル機関車が生まれました。

D51型499号
この機関車は昭和16年2月1日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を32年以上走り続け、昭和48年9月17日、役目を終えました。

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その間に走った距離は205万キロ(地球51周)にもなりました。多くの人々に親しまれた機関車は昭和48年10月9日に津偕楽公園に運ばれました。

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上野英三郎博士とハチ公

上野英三郎は明治四年現三重県津市元町(伊勢国一志郡本村甲一〇九番屋敷)に生まれた農学博士です。
明治から大正期に日本農業の基盤となる水田の耕地整理を指導し大学はもとより全国各地で数多くの技術者を育成した農業土木分野の先駆け者でした。

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東京帝国大学で教鞭をとった博士は54歳の若さで亡くなりました。博士の飼い犬「ハチ(秋田犬)」との生活は1年5ヶ月と短い間でしたが、人としての愛を注ぐ事により動物との紲「絆」が生まれました。
その後、ハチが渋谷駅前で帰らぬ主人を待つ姿が新聞で紹介され多くの人々に感動を与え「忠犬ハチ公」として広く世間に知られ映画化及び書籍にもなりました。

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ああ忠犬ハチ公よ

春まだ遠い 北国の
生まれて間もない 大館は
吹雪が舞っている 汽車の旅
知らない街は 東京の
優しい家族に 育てられ
何時しか駅まで 通いみち
ああ忠犬ハチ公よ

狭山池のさくら

15日、狭山池のさくらが咲いていると聞いたので行ってみた。殆どの桜は蕾もかたいが数本が咲いていた。

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平成の狭山池改修工事の際、北の堤の両側に桜の古木で毎年トンネルができていたが全て切り倒され若木が植えられた。花が咲けば多くの人で賑わぐが、もう少し幹が太くなり枝が伸びると桜木の下で弁当を食べるのも良いと思っている。
先日、紀伊半島の熊野地方で桜の新種が103年ぶりに発見されたと報道があった。「熊野ざくら」と名付けられた。見てみたいとは思うが何処が新種なのかわからないのだろうな。

土井聱牙

土井聱牙(1817〜1880)は津藩の漢学者で、この詩は彼が40歳の時「書生に示す」という題で作ったものである。

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この詩は七言絶句であることから、七字づつに区切って次のように読む。
1 大読書の人は即ち聖賢  2 後天唯是失天を補う  3 晨昏 汝の雙瞳子を責め  4 注ぎて青燈に向い万巻を穿つ

1 たくさんの書物を読んだ人が即ち聖人 賢人なのである  2 なぜならば、読書という後天的努力により先天的素質を補うからである  3 だから朝夕(晨昏) あなたの二つの眼を十分に活用し  4 精神を集中して燈火に向い、たくさんな書物を読破しなさい






西鉄門虎口(津城)

西鉄門虎口

西の丸から本丸に至る入口で、土橋と桝形を組み合わせた虎口であった。桝形は外門の西黒門、内門の西鉄門からなり、西黒門の脇には二重の伊賀櫓を巡らせた厳重な構造であった。
土橋は両側に土塀を掛けた特異なもので、外側に桜門を設けることで、二重の桝形を構成していた。

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 )楷檗
石垣が切れたところには埋門と呼ばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓はじめ5つの櫓があって、多門櫓と呼ばれる渡り廊下のようなものでつながれていた。

◆\召隆檗
現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。南西には玉櫓と外郭から入ると鍵の手に曲がった所に二階の櫓門があった。本丸との境には西の鉄門があり、土橋でつながっていた。

 東の丸
現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さなお宮さんがあったと言われている。

ぁ‘睨
本丸、西の丸、東の丸を取り囲んでいたが順次埋め立てられて現在は本丸と西の丸の周りに残っているのみである。

ァ‘鵑隆
内堀と外堀に囲まれたところで重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12の小さな櫓が築かれ、北(京口御門)・西(伊賀口御門)・南(中島口御門)に門が設けられていた。
文政3年(1820)には、藩校有造館が置かれた。

Αヽ伊
城の内と外を区切る堀で、岩田川から水を取り入れていたため潮の干満で水面が上下した。
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