知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年04月

狭山池まつり

狭山池まつり2018は、龍神エリア・北堤エリア・狭山池博物館・さやか公園・東堤エリア・南堤エリア・西堤エリアで行われ、迷子が出るほどの人々が参加した。出店も数多く人の数も過去最高と思われる。28日には花火が打ち上げられ、また、灯火台が点火され狭山池が蝋燭の火で繋がれました。29日には地元農家で採れた新鮮な野菜が販売されました。

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狭山池は、今から1400年前につくられ、現存する我が国最古のダム式ため池です。古事記や日本書紀にもその名が登場し、奈良時代には行基、鎌倉時代には重源、江戸時代には片桐且元が指揮をとり、当時の最新技術を駆使して改修しました。
狭山池は、水下や地域の多くの人々の惜しみない努力によって、1400年もの間守り伝えられてきた大切な文化遺産です。

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狭山池は、古くから人々の暮らしに恩恵を与えてきただけでなく、多くの生き物の生息場にもなっています。魚類等の水生生物はもちろんのこと、水鳥の楽園としても知られ、バードウオッチに訪れる人も少なくありません。平成の大改修以降はさくらの名所として復活し、バタフライガーデンには沢山の蝶が訪れます。狭山池の自然の美しさは、市民の継続的な努力により育まれたものです。

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狭山池まつり実行委員会『趣意文』

私たちのふるさと大阪狭山の真中に周囲一里の狭山池があります。歴史的価値の高い日本最古の人工のため池としてはるか遠い飛鳥の時代から、悠久の時を刻んできたふるさとの誇りです。
時には干ばつや洪水に耐えて人々を救い、時には、狭山のシンボルに、また、憩いの場として親しまれ、愛されてきました。
そして、平成の改修によって、その歴史・文化的価値は、より大きなものとなり、今では大阪、日本、そして世界への誇りなのです。この狭山池には、池の貴重な土木遺産を展示保存し未来に継承すべく、狭山池博物館があります。
また、水と緑に親しみ、憩いやくつろぎを与えてくれる場でもあります。地域に暮らす人すべてが狭山池に集い、豊かにコミュニケーションしていく。新しい大阪狭山の文化と活力は、ここから生まれるのです。
私たち市民が力を合わせて、すばらしい「狭山池まつり」を創りあげようではありませんか。

電気鉄道事業発祥の地

油掛通は、通称「油懸地蔵」の前の東西の通りをさす。町名としては、上・中・下の三ヶ町からなる。
江戸時代、伏見港に近く、京・大坂へ行き交う旅人で大いに賑わった。明治時代、第一銀行が京都支店に続いて中油掛町に伏見支店を開設した。

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明治28年には、下油掛より京都駅まで、我が国最初の電気鉄道が営業を開始した。大正時代に明治天皇の桃山御陵築営に伴い、北一筋目の大手筋にその賑わいが移っていった。この付近が貨物集散地であったので、車町・塩屋町・木材本町・納屋町といった当時の繁栄ぶりを示す町名が散在する。

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坂本龍馬、避難の材木小屋跡

慶応二年(1866)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれ、風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して二階の龍馬に危機を告げたので龍馬はピストルで応戦した。
三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて豪川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。
この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は豪川の左岸南方にあったと言われている。

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藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止らなかったと龍馬の手紙にも記されています。
龍馬とお龍は、1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。
これが後に、日本で最初の新婚旅行といわれています。

五濁悪世

− 國みだれ 五濁悪世の 世とならば−

五濁とは、釈迦の八万法蔵(八万四千の略数、多数又は無数の意味に用いる)のなかで法華経方便品で説かれた五つの濁りをいう。(劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁)、現在の文字で書くならば、時代の濁り・社会の濁り・人間の本能的な迷い・思想の濁り・生命そのものの濁りとなる。
五濁悪世とは、五濁の盛んな悪い世の中であり、末法の時代を云う。末法は、釈迦入滅後正確に2000年経った時から始まるとされている。

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寺田屋騒動

慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。「寺田屋遭難」とも言う。

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。

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翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。
この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、同じ官位の京都守護職松平肥後守と誤認されて、それにより配下の新撰組の関与が連想されたものであった。現在は間違いであるとされるが、訂正されていない古い書籍やそれをもとにしたものには新撰組が登場する。『三吉慎蔵日記抄』によると、両名は伏見で度々新撰組の検問を無事通過しており、嫌疑を受けていた様子はない。伏見奉行が動いた理由は、薩摩藩士を騙る不逞浪人が寺田屋にいるということだったようである。

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龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。

私の散歩道

冬の狭山池は西風が強く手が痺れるくらい冷たいので民家が多い線路沿いを歩く。暖かくなったので狭山池の北にある副池を歩いてみた。
子どもの頃、この副池でソリをしたり泳いだりして遊んだ記憶があるが、今は金網で入れないようになっている。今は池の西側に遊歩道ができて狭山池に通じている。

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つばき三種

【侘助】
わが国原産の「つばき(C. japonica)」と中国原産の「ちゃのき(C. sinensis)」との交雑種だと考えられており、花は小さな一重咲きで、果実はできません。「白侘助」や「紅侘助」、「胡蝶侘助」などの園芸品種があります。「白侘助」は11月から3月、「紅侘助」は2月から4月、「胡蝶侘助」は3月から4月に咲き、ツバキ科ツバキ属の常緑低木です。

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【カリン】
果実は生薬名を和木瓜という。日本薬局方外生薬規格においてカリンの果実を木瓜として規定していることから,日本の市場で木瓜として流通しているのは実はカリンである。

中国語では『爾雅』にも記載がある「木瓜」を標準名とする他に「榠楂」(『図経本草』)、木李(『詩経』)、「木瓜海棠」、「光皮木瓜」、「香木瓜」、「梗木瓜」、「鉄脚梨」、「万寿果」などの名称がある。「木瓜」は他にボケ類やパパイア(「番木瓜」の略)を意味しうる。

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龍馬とお龍

「龍馬とお龍、愛の旅路」
薩長同盟を締結させた直後の慶応二年(1866)、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬に伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。
この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれえいましたが、右手の傷を癒やすため寺田屋浜から三十石船に乗りお龍と共に、九州霧島へと旅立ちました。

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狭山池周遊路

狭山池を一周してみたら満開の桜もあるが終わっているのもある。葉桜もチラホラ、それでもビニールシートを広げてくつろいでいる人達も多い。

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伏見口の戦い激戦地跡

江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟など、千数百隻にもおよぶ舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以による高瀬川の開削で洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。
ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。

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江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。
橋の南詰めには三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
幕末の慶応4年((1868)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、この辺りの多くの民家が焼かれ大きな被害を受けました。
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