知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年05月

坂本龍馬

     
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世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る   坂本龍馬

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中書島

伏見城時代、脇坂中務小輔安治の邸宅があったと伝えられる。脇坂氏の官職名「中務」が中国風には「中書」と呼ばれていたので、その名から島名がつけられた。
伏見廃城後は芦萩が生い茂る島となっていたが、元禄時代、時の伏見奉行であった建部匠頭政宇が再開発して、伏見の繁栄をもたらした。

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昭和初年にこの島の周囲をめぐる濠川の半分を埋め立てて住宅地として利用された。戦後「今富橋」から南部分が全面的に埋め立てられて島としての景観は失われた。
虚子の句に「花人の落ち合ふ駅や中書島」と詠まれ、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもある。

源空寺山門

源空寺は寺伝によれば、もと炭山(宇治市)にあったが慶長年間(1596〜1615)に徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光によって伏見に移された。
二層からなる山門は伏見城から移築された遺構と伝えられており、階下にある大黒天は豊臣秀吉の持念仏で伏見城の巽櫓にあったものが、一時京町大黒町に預けられた後、源空寺に移された経緯から当地はかつて新大黒町とも呼ばれていた。

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伏見銀座跡

これより北方の銀座町は江戸時代の初め、徳川家康によって初めて銀座が置かれたところである。現座とは鋳物を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、特権商人によって構成される。

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関ヶ原の戦いが終わった翌慶長6年(1601)5月、家康は後藤庄右衛門、末吉官兵衛に銀座取立てを命じ、この地に四町の屋敷を与えた。有力商人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技術をもつ大黒常是が鋳造を担当し、銀座会所、座人屋敷が立ち並んだ。これが江戸時代銀座の始まりである。
慶長13年銀座は京都中京の両替屋へ移され(後に江戸・大坂などにも設置)、伏見銀座は廃止されたが、銀座の地名を今に留めている。

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京町通

伏見築城に際して、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」であると思われ、この通りを北上すれば京都南座の側を通り、遠く大原の里まで続いている。まさしく京へ通ずる道である。

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江戸時代、京町1丁目と2丁目との間に伏見奉行の西御門があり、京町3丁目と讃岐町の交わった場所に伏見奉行所の高札場が設けられ、俗に「札の辻」とも呼ばれた。明治維新「鳥羽・伏見の戦い」の折りには官軍と奉行所の幕軍が白兵戦を繰り広げた。今も当時の戦いの激しい様子を伝える弾痕を残す格子戸のある民家も現存する。この通りの北側にはかつて、「伏見インクライン(傾斜鉄道)」が鴨川運河と濠川を結んでいた。

伏見奉行所跡

伏見は江戸時代、幕府の直轄領だった。宿場町としても規模が非常に大きく、宇治川・淀川と高瀬川とを中継する川港としても大いに賑わった。
伏見城を廃した幕府は、伏見奉行所を置き、伏見町及び伏見廻り八か村と葭島新田を治めた。その範囲は西奉行所・東奉行所と南は桃陵中学校に至る広大なもので正門は西側にあった。正門の南北には石垣の上に白壁が続き、南北二つの櫓がそびえていたと伝えられる。

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伏見奉行所は、伏見町の司法・行政だけでなく、川船の監督、管轄する農村からの年貢徴収なども担当した。そのため、江戸幕府の遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かった。慶応三年(1867)六月に二十六代奉行の林忠交(請西藩主、千葉県の大名)が病死した後は空席となり、職務は京都奉行所が管轄した。

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慶応四年(明治元年)正月3・4日の鳥羽伏見の戦いでは会津兵や新選組ら旧幕府側がここを本陣とした。しかし御香宮神社に陣を布いた薩摩兵から砲火を浴びせられ焼失した。
維新後は、明治四年親兵(後の近衛兵)が配備され、次いで工兵第十六大隊が置かれた。

鳥羽伏見戦の弾痕

格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に薩長士連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげた、世にいう鳥羽伏見の戦いです。

幕府の大政奉還の奉上、朝廷の王政復古の令の直後、朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地は、幕府を怒らせ、京へ攻め上がってまいりました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。

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この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。

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会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の12代教如が創建し、本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築 したものと伝えられ、大正4年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。
ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。

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幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊200名が伏見京橋に上陸、ここに伏見御堂を宿陣とし、翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。
そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2年に老朽化のため取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。

月の蔵人

「月の蔵人」の建物は、月桂冠の酒蔵のひとつとして大正二年に建築されました。当時は創業家十一代目・大倉恒吉が当主として酒造業を営んでいた時代で、伏見に十ヶ所の酒蔵を所有していたうち、本木材町の南蔵(現・内蔵)、丹後町の東蔵(現・月桂冠本社)などでの醸造に用いる酒米をここで精米していました。

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精米は酒造りの最初の大切な行程で、酒米を割れないように丹念に時間をかけ、飯米よりずっと小さくなるまで削られます。技術向上に盛んに挑んでいた時代、水車精米や初の電動式精米機、更には国産や外国製など様々なメーカーの精米機を導入し研究された記録も残っています。

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品質の向上により、、大正三年には東京大正博覧会で「名誉金牌」を受賞するなど、この伏見の地に100年前もの昔から月桂冠の品質や知名度を支えてきた酒蔵のひとつでした。
「この建物は平成十四年より京の台所「月の蔵人」として豆富、湯葉を中心とする四季折々の和食料理、月桂冠の日本酒、そして時を忘れてしまいそうな歴史の赴きある酒蔵の空間を満喫して頂ける場所としてご愛願頂いております。」とある。
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