知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年06月

海会寺をつくった豪族の屋敷

海会寺跡の東に広がる広場には200年以上のあいだ営まれた村がありました。なかでも海会寺が造られた頃、とても大きな屋敷がありました。この屋敷は当時の一般的な住居と比べると数倍大きなものです。この屋敷に住んでいたのは、この辺りの村々を治めた有力者、海会寺を造った豪族でした。
この広場には海会寺が造られる以前、7世紀の初頭から9世紀代まで200年以上の間、古代の人々が暮らしていました。なかでも海会寺建立後、8世紀初頭になると集落内に巨大な掘立柱建物群が出現しました。東西に長く最も大きな建物(正殿)と南北に長い建物(脇殿)が並んで造られたのです。

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脇殿と正殿は柱列を一直線上に揃えて造られたことがわかります。建物の間隔も綿密に計算された上で建てられています。このような大規模・企画性は一般の集落では見られないもので、正殿が南側に庇をもち、正殿と脇殿の前に広場があることなどからも当時の都や役所の建物の配置を真似たものといえます。

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この役所風の建物配置は、海会寺を造った豪族が、律令国家の中心地・奈良の都にいた有力者たちの影響を受けたためと考えられています。
規模;正殿 東西13.8メートル(桁行6間)×南北7メートル(桁行3間南面庇付き)面積約97
    脇殿 南北11.8メートル(桁行5間)×南北(桁行2間)、面積59

海会寺跡


巨大な塔を支えるためにしっかりとした基礎が作られました。少し土を積んでは細い棒でつきかためていき、その廻りには土が崩れないように、地元でとれる和泉砂岩という河原石を積み上げました。この石積みの頂上には塼(せん)と呼ばれるレンガのような焼き物が敷かれました。重い柱を支えるため、その下に和泉砂岩製の礎石が置かれました。
規模;基壇一辺13.2メートル 高さ2メートル 柱間2.4メートル

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金堂
発掘調査で石積みが見つかり、塔と同じ河原石を積み上げた基壇だったことがわかっています。
規模; 基壇東西21メートル×南北推定17.4メートル

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講堂
礎石は全て失われていましたが、そのあとから柱の位置がわかり建物の規模が判明しました。基壇は河原石積みで、高さは塔や金堂と比べ低いものでした。
規模;基壇東西21メートル×南北13.8メートル 

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回廊
発掘調査により、花崗岩製の柱礎石が見つかっています。柱を置く部分が丸く削り出されています。
規模;基壇幅4.6メートル 桁行柱間2.1メートル×桁行柱間2.4メートル

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信達宿本陣跡

紀州街道は古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣で賑わっていました。特に市場村は、白河上皇以降、歴代上皇の宿舎が置かれたところから信達荘御所村とも呼ばれていました。後鳥羽上皇が熊野詣をされた建仁元年(1201)十月、お供の歌人、藤原定家の日記「後鳥羽院熊野行幸記」にも、往きの七日、帰りの二十四日、信達宿に宿泊したという一文があります。

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紀州公は、参勤交代の折には、約1500人の供を連れ和歌山城を出立し、雄ノ山峠を越え、山中宿で昼休憩をとり、信達宿を目指しました。当時、山中宿の先には、琵琶ケ崖という、街道一の難所があり、そこは十数メートル下に山中川が流れる、断崖絶壁の細道でその昔、琵琶法師が、足を踏み外して谷に落ち、それ以来、琵琶の音が、谷底から不気味に聞こえてくる為その名がついています。

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江戸時代になり、徳川幕府により、伝馬宿駅制度が整備されて参勤交代制度が確立されると主要な宿場に本陣と人馬問屋が置かれました。本陣とは元は戦の時に大将が詰める本営の事でしたが、以後は大名、公家、幕府の役人、僧侶等の貴人の宿舎となりました。五街道の主要な宿場には、宿泊本陣が置かれ他に休息専用の本陣もありました。脇街道の紀州街道は、信達宿市場村と貝狃百蠕寺に宿泊本陣が山中宿と助松宿に休憩本陣があり、千坪以上の屋敷地に御成門、式台玄関、上段の間等の格式を備えた建物がありました。

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敷地は間口二十七間、奥行き三十九間で、千四十三坪あり、建坪も二百五十坪ありました。江戸時代は除地(官地)とされ、年貢は免除されていました。長屋門は当時(江戸時代)のままですが主屋は明治23年に建て直されています。

信達宿の常夜灯

ここは紀州街道と信長街道が交差しているところで、信長街道の起点にもなっています。常夜灯は交通の要衝に建っています。

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常夜灯の右側(南側)には、正面に両皇太神宮、右側面に文政十三寅年(1830年)三月吉日、左側面に金比羅大権現、裏面に願主、村中御蔭連中と書かれています。
文政13年は「文政のお蔭参り」の年に当たり、全国から430万人もの人々が伊勢神宮に参拝しました。願主 村中 御蔭連中とあることから、当時の市場村からもかなりの人数が伊勢参りをしたことが推察でき、この常夜灯は村人の伊勢参宮での道中の安全を祈願する為に建てられたものと考えられます。
中央は、正面に太神宮、右側面に寛政二庚戌(かのえいぬ)年(1790年)正月吉日とあります。左は正面に、奉献、両神宮とあり、右側面には文化十二乙亥(きのとい)(1815年)五月とあります。

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これらの常夜灯は、江戸時代から平成4年まで約200年間、両宮常夜灯講の人々によって守られ、もともと常夜灯というのは、灯りがなかった街道筋に建てられ、旅人の安全を見守ると同時に宿場の目印でもありました。それが、街灯が整備された平成まで続いたということは驚くべきことです。電気による自動点灯式になりましたが、今でも常夜灯の役目を果たしています。

野田ふじ(信達宿)

熊野街道信達宿にある梶本家の野田藤は、1本の木に4万の花房をつけるといわれ、毎年4月中旬〜下旬の見頃に開催される「ふじまつり」には、大阪府泉南市の春の風物詩のひとつともなっています。

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まつり期間中は、観賞台が設置され、藤棚を上から眺めることができます。眼下に紫の雲海が広がる様子は圧巻です。夕刻からは藤棚のライトアップも行われます。また、熊野街道沿いには、「熊野街道花あかり」としてランタンが設置され、灯りをたどりながら夕べの散策を楽しむことができます。

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期間中のイベント開催日には、ふじまつり会場でミニコンサートなどが行われたり、紀州家ゆかりの信達宿本陣跡「角谷家」、新家にある国登録有形文化財「山田家」も特別公開される予定です。

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     この藤を訪ねる人に安らぎを
               去りゆく人に幸せを

「泉南石綿の碑」由来

大阪府泉南市信達地区は工場が集中立地する石綿紡織産業の中心地で、戦前「いしわた村」と呼ばれた。
一世紀にわたり生産が続いた結果、地方出身者や在日コリアンを含む労働者、事業主、家族、周辺住民に石綿被害が多発した。
泉南石綿産業100年の歴史は、石綿被害100年の歴史でもあった。しかし、その被害は埋没し、自覚されることもないまま拡大した。
国は、1937年から実施した大規模な実態調査や戦後の継続調査によって、当地の深刻な被害の実情を早くから知っていた。地元にも警告を発し続けた医師がいた。にもかかわらず国は、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わずこれを放置した。
2006年5月、被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償訴訟に立ち上がった。裁判は粘り強く闘われ、敗訴判決による困難な局面にも遭遇したが、2014年10月9日、最高裁は我が国初めて石綿禍に対する国の責任を認める最終判断を下した。翌年1月には厚労大臣が来泉し原告らの前で謝罪した。
8年半に及んだ裁判の勝利を記念し、無告無念のうちに逝った者たちの鎮魂と、すべての石綿禍根絶の願いを込めて、石綿産業と被害の原点の地信達に「泉南石綿の碑」を建立した。

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      帰らぬ母に わたしは問いかける そこに花は咲いていますか 暗く小さな工場の中 白い
      塵が舞っていましたね 粉雪のように
      帰らぬ父と 帰らぬ夫に わたしは問いかける そこに陽はさしていますか 油で汚れた作業
      場で働きづめの日々でしたね 子供たちのために
      帰らぬ友に わたしは問いかける そこに風は吹いていますか せわしく行き交う シャトル
      の音 がんばりやの織り子さんでしたね なにも知らされずに
      遺されたわたしは誓う もう涙は流さないと いしわたの町に生まれ いしわたの町で育ち 
      わたしは今顔をあげて 五月の空へあるきはじめる

林昌寺のつつじとサツキ

林昌寺の山号は「躑躅山」といい、平安時代後期、堀河天皇が行幸のおり、山躑躅(つつじ)が見事であったことから、山号を躑躅山と改めたという歴史があります。重森三玲氏作庭のモダンな寺庭では、毎年5月、ツツジに続いて美しく刈り込まれたサツキが見頃を迎えます。庭は昔、躑躅丘と言われた丘陵の一角であり、山の斜面を利用した見事な景観です。

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天平年間に開創されたとされる寺である。天正年間に織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めの兵火によりことごとく焼失したが江戸時代中期に再建され現在に至る。

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訪れたのは4月22日、少し早かったか。

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大樟と槇(岡中鎮守社)

昔、この地は土壁に囲まれ、樟・槇・銀杏・椋の木などの大木に覆われ、日中でも薄暗く「高城の宮」と呼ばれた社がありました。
明治の終わり頃には鎮守社の大木の殆どが伐採され、幸いにも樟と槇も木が保存されました。樟は樹齢八百年以上、樹幹周囲8.2メートル、根元12メートル、樹高30メートルで、地上3メートルの所で幹が3本に分かれ、その姿の美しさと大きさが認められ大阪府の天然記念物に指定されました。平成元年には「大阪みどりの百選」にも選ばれました。

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槇は樟より古木であろうといわれ、樹幹周囲2.4メートル、根元3.4メートル、樹高19.5メートルあり、槇は一般に成長が遅く、直径1メートル近い規模は府下では傑出したものですが、隣の樟の威容に隠れたためか、平成2年になり大阪府の天然記念物に指定されました。

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また、「ちびっこ広場」の施設建設に伴い発掘調査の結果、中世の寺院跡が見つかり、瓦・皿などが多数出土し泉南市の教育委員会保存されています。この樟と槇の木は神社又は寺の境内に植えられたものであり、先祖からの贈り物であり、地中にどっしりと根をおろし大空に高くそびえて限りなく成長し続ける姿は岡中のシンボルとなっている。

山の井遺蹟

古事記や日本書紀によると、今から約二千七百年ほど甲寅の10月、五瀬命と盤余彦命(後の神武天皇)は、日向の地(九州)で、日出ずる大和への「東征」を決意し、乙卯三月には吉備国に入り、戊午二月、船団を出して浪速国へ。そして三月、河内国から龍田へ進軍、河内生駒山の孔舎衙坂の地で豪族長髄彦との戦いで激しい反撃に遭い、其の時、五瀬命が敵の流れ矢に当たって深手を負ってしまいました。『日に向かいて戦うは利あらず』と船で和泉灘を山城水門まで下ってきた時、矢傷思わしくなく、手当ての場を求めて上陸し、城の崎と呼ばれた山麓の岩壁から下垂り落ちる石清水で傷を洗い癒やしたこの地が「山の井遺蹟」と伝えられている。

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この遺蹟に残された古びた井戸の側に古碑があり、「山の井」と記されたその両側に、
藤原光俊   山のゐのみなとはなれて行く船の あかても人にぬるるそてかな
豊岡尚資   山のゐのみなとを今のたるゐとは むかしわすれぬ人もこそしれ
                                      の和歌二首が刻まれていたようです。

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昔の樽井台地は断崖をなし、古木茂る丘の裾から自然に清らかな泉が湧き出でて、樽井の地名はこの泉の『垂井』からといわれ、また、『山城水門』の名も樽井の台地を海岸から眺めると城塁のように屹立し、山城のようであったことから付けられたといわれる。

カルガモ

6月2日夕方、狭山池を散歩しているとカルガモの親子を見ました。

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日本、ロシア東部、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国に分布。日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)する。和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。
翼長オス25.4-27.6センチメートル、メス24.3-26センチメートル。次列風切の光沢は青紫色で、次列風切や三列風切羽縁の白色部が小型で不明瞭、少なくとも亜種カルガモはオスの腹部の羽衣が濃褐色で、羽毛外縁(羽縁)の淡色部が小型になり胸部との差異が明瞭。尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)が光沢のある黒、メスは胸部と腹部の羽衣の差異が不明瞭で、上尾筒や下尾筒が黒褐色で羽縁が淡色だったり淡色の斑紋が入る。
(ウィキペディアより)
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