知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年06月

信達宿の常夜灯

ここは紀州街道と信長街道が交差しているところで、信長街道の起点にもなっています。常夜灯は交通の要衝に建っています。

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常夜灯の右側(南側)には、正面に両皇太神宮、右側面に文政十三寅年(1830年)三月吉日、左側面に金比羅大権現、裏面に願主、村中御蔭連中と書かれています。
文政13年は「文政のお蔭参り」の年に当たり、全国から430万人もの人々が伊勢神宮に参拝しました。願主 村中 御蔭連中とあることから、当時の市場村からもかなりの人数が伊勢参りをしたことが推察でき、この常夜灯は村人の伊勢参宮での道中の安全を祈願する為に建てられたものと考えられます。
中央は、正面に太神宮、右側面に寛政二庚戌(かのえいぬ)年(1790年)正月吉日とあります。左は正面に、奉献、両神宮とあり、右側面には文化十二乙亥(きのとい)(1815年)五月とあります。

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これらの常夜灯は、江戸時代から平成4年まで約200年間、両宮常夜灯講の人々によって守られ、もともと常夜灯というのは、灯りがなかった街道筋に建てられ、旅人の安全を見守ると同時に宿場の目印でもありました。それが、街灯が整備された平成まで続いたということは驚くべきことです。電気による自動点灯式になりましたが、今でも常夜灯の役目を果たしています。

野田ふじ(信達宿)

熊野街道信達宿にある梶本家の野田藤は、1本の木に4万の花房をつけるといわれ、毎年4月中旬〜下旬の見頃に開催される「ふじまつり」には、大阪府泉南市の春の風物詩のひとつともなっています。

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まつり期間中は、観賞台が設置され、藤棚を上から眺めることができます。眼下に紫の雲海が広がる様子は圧巻です。夕刻からは藤棚のライトアップも行われます。また、熊野街道沿いには、「熊野街道花あかり」としてランタンが設置され、灯りをたどりながら夕べの散策を楽しむことができます。

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期間中のイベント開催日には、ふじまつり会場でミニコンサートなどが行われたり、紀州家ゆかりの信達宿本陣跡「角谷家」、新家にある国登録有形文化財「山田家」も特別公開される予定です。

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     この藤を訪ねる人に安らぎを
               去りゆく人に幸せを

「泉南石綿の碑」由来

大阪府泉南市信達地区は工場が集中立地する石綿紡織産業の中心地で、戦前「いしわた村」と呼ばれた。
一世紀にわたり生産が続いた結果、地方出身者や在日コリアンを含む労働者、事業主、家族、周辺住民に石綿被害が多発した。
泉南石綿産業100年の歴史は、石綿被害100年の歴史でもあった。しかし、その被害は埋没し、自覚されることもないまま拡大した。
国は、1937年から実施した大規模な実態調査や戦後の継続調査によって、当地の深刻な被害の実情を早くから知っていた。地元にも警告を発し続けた医師がいた。にもかかわらず国は、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わずこれを放置した。
2006年5月、被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償訴訟に立ち上がった。裁判は粘り強く闘われ、敗訴判決による困難な局面にも遭遇したが、2014年10月9日、最高裁は我が国初めて石綿禍に対する国の責任を認める最終判断を下した。翌年1月には厚労大臣が来泉し原告らの前で謝罪した。
8年半に及んだ裁判の勝利を記念し、無告無念のうちに逝った者たちの鎮魂と、すべての石綿禍根絶の願いを込めて、石綿産業と被害の原点の地信達に「泉南石綿の碑」を建立した。

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      帰らぬ母に わたしは問いかける そこに花は咲いていますか 暗く小さな工場の中 白い
      塵が舞っていましたね 粉雪のように
      帰らぬ父と 帰らぬ夫に わたしは問いかける そこに陽はさしていますか 油で汚れた作業
      場で働きづめの日々でしたね 子供たちのために
      帰らぬ友に わたしは問いかける そこに風は吹いていますか せわしく行き交う シャトル
      の音 がんばりやの織り子さんでしたね なにも知らされずに
      遺されたわたしは誓う もう涙は流さないと いしわたの町に生まれ いしわたの町で育ち 
      わたしは今顔をあげて 五月の空へあるきはじめる

林昌寺のつつじとサツキ

林昌寺の山号は「躑躅山」といい、平安時代後期、堀河天皇が行幸のおり、山躑躅(つつじ)が見事であったことから、山号を躑躅山と改めたという歴史があります。重森三玲氏作庭のモダンな寺庭では、毎年5月、ツツジに続いて美しく刈り込まれたサツキが見頃を迎えます。庭は昔、躑躅丘と言われた丘陵の一角であり、山の斜面を利用した見事な景観です。

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天平年間に開創されたとされる寺である。天正年間に織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めの兵火によりことごとく焼失したが江戸時代中期に再建され現在に至る。

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訪れたのは4月22日、少し早かったか。

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大樟と槇(岡中鎮守社)

昔、この地は土壁に囲まれ、樟・槇・銀杏・椋の木などの大木に覆われ、日中でも薄暗く「高城の宮」と呼ばれた社がありました。
明治の終わり頃には鎮守社の大木の殆どが伐採され、幸いにも樟と槇も木が保存されました。樟は樹齢八百年以上、樹幹周囲8.2メートル、根元12メートル、樹高30メートルで、地上3メートルの所で幹が3本に分かれ、その姿の美しさと大きさが認められ大阪府の天然記念物に指定されました。平成元年には「大阪みどりの百選」にも選ばれました。

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槇は樟より古木であろうといわれ、樹幹周囲2.4メートル、根元3.4メートル、樹高19.5メートルあり、槇は一般に成長が遅く、直径1メートル近い規模は府下では傑出したものですが、隣の樟の威容に隠れたためか、平成2年になり大阪府の天然記念物に指定されました。

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また、「ちびっこ広場」の施設建設に伴い発掘調査の結果、中世の寺院跡が見つかり、瓦・皿などが多数出土し泉南市の教育委員会保存されています。この樟と槇の木は神社又は寺の境内に植えられたものであり、先祖からの贈り物であり、地中にどっしりと根をおろし大空に高くそびえて限りなく成長し続ける姿は岡中のシンボルとなっている。

山の井遺蹟

古事記や日本書紀によると、今から約二千七百年ほど甲寅の10月、五瀬命と盤余彦命(後の神武天皇)は、日向の地(九州)で、日出ずる大和への「東征」を決意し、乙卯三月には吉備国に入り、戊午二月、船団を出して浪速国へ。そして三月、河内国から龍田へ進軍、河内生駒山の孔舎衙坂の地で豪族長髄彦との戦いで激しい反撃に遭い、其の時、五瀬命が敵の流れ矢に当たって深手を負ってしまいました。『日に向かいて戦うは利あらず』と船で和泉灘を山城水門まで下ってきた時、矢傷思わしくなく、手当ての場を求めて上陸し、城の崎と呼ばれた山麓の岩壁から下垂り落ちる石清水で傷を洗い癒やしたこの地が「山の井遺蹟」と伝えられている。

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この遺蹟に残された古びた井戸の側に古碑があり、「山の井」と記されたその両側に、
藤原光俊   山のゐのみなとはなれて行く船の あかても人にぬるるそてかな
豊岡尚資   山のゐのみなとを今のたるゐとは むかしわすれぬ人もこそしれ
                                      の和歌二首が刻まれていたようです。

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昔の樽井台地は断崖をなし、古木茂る丘の裾から自然に清らかな泉が湧き出でて、樽井の地名はこの泉の『垂井』からといわれ、また、『山城水門』の名も樽井の台地を海岸から眺めると城塁のように屹立し、山城のようであったことから付けられたといわれる。

カルガモ

6月2日夕方、狭山池を散歩しているとカルガモの親子を見ました。

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日本、ロシア東部、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国に分布。日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)する。和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。
翼長オス25.4-27.6センチメートル、メス24.3-26センチメートル。次列風切の光沢は青紫色で、次列風切や三列風切羽縁の白色部が小型で不明瞭、少なくとも亜種カルガモはオスの腹部の羽衣が濃褐色で、羽毛外縁(羽縁)の淡色部が小型になり胸部との差異が明瞭。尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)が光沢のある黒、メスは胸部と腹部の羽衣の差異が不明瞭で、上尾筒や下尾筒が黒褐色で羽縁が淡色だったり淡色の斑紋が入る。
(ウィキペディアより)

南泉州なすびんウォ−ク2018

泉南の熊野街道(大坂夏の陣・樫井合戦の史跡)を巡るコースに参加しました。
コース(南海本線樽井駅受付スタート〜赤レンガ工場跡〜大師道〜岡中鎮守社〜林昌寺〜市之瀬王子跡〜信達宿本陣跡〜海会寺跡〜樫井古戦場跡〜淡輪六郎兵衛の墓〜塙団右衛門の墓〜田尻駅上広場(ゴール受付)〜吉見ノ里駅)約11キロ

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当日は快晴、海風も吹き歩数計は21927歩を示していました。
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