知音の旅人
誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である
2018年07月
7月
30
歌碑
この歌の意は、
名高の浦の愛子地には袖を触れるだけで、そこに寝ることもなく終わってしまうのであろうか。
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#歌碑
7月
27
万葉歌碑
黒牛の海 くれなゐにほふ ももしきの
大宮人し あさりすらしも
「黒牛の海の浜辺が虹の色に美しく照り映えている。宮廷のお供の女官たちが磯遊びをしているらしい」
紀伊続風土記によると、現在の海南市船尾、黒江、日方地区はその昔、深い入り江であり、潮が引くと黒い大きな牛の形をした岩が見えたので、黒牛潟(黒牛の海)と呼ばれていた。
黒江という地名はこの黒牛潟に由来する。この歌は、海のない大和国(奈良県)人が生まれて初めて見る紀伊国(和歌山県)の海に感動し浜辺の鮮やかな景色に対する心の高ぶりを歌ったものである。
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7月
24
くろめ桶
木から採取した荒味漆の塵など濾過してから、斜めに立てかけた、この桶に入れ天日や炭で温めながら長い篦で掻き回して「クロメ」と「ナヤシ」を同時に行った。これが漆の精製です。
この漆の木は日本一の漆の産地である岩手県浄法寺町から贈られたもので、横に幾筋もの傷が付いていますが、このように木に傷を付け、そこからにじみ出る樹液を集め(漆を「掻く」という)、精製した漆が漆器の塗料になります。
漆の乾燥には適度な水分が必要で湿度が50〜70パーセントで最良の「膜」が得られます。水分を蒸発させる普通の乾燥とは反対なのです。
個体となった漆は、すぐれた塗料としての性質を発揮し、美しい光沢はもちろん、酸、アルカリ、塩分、アルコールなどの化学物質にも侵されず、耐久性、断熱性、防腐性にも優れています。
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7月
21
温故伝承館
和歌山県の海南市黒江に「温故伝承館」があります。中国の故事によります「温故知新」から「温故伝承館」は名付けられ、酒造りの老舗が開館した資料館です。元酒蔵には酒造りの道具から民芸品、生活用品などが当時のままに展示してあります。
日本酒は日本が生んだきわめて高い完成度を持つ醸造技術で造られてきました。江戸時代中期にはほぼ完成されていた清酒製造技術は、練達した杜氏や蔵人により代々伝えられてきたものです。
経験と勘、また但馬や丹波などの杜氏集団が血縁地縁の言い伝えだけで、単純で素朴な道具を駆使して、米から高いアルコール分を産み出す技術を継承してきましたことは、驚嘆すべき世界に誇る文化的財産です。
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7月
18
黒江の町並み
黒江には江戸時代末期からの古い町並みが残されています。黒江の町並みの特徴は、切妻屋根の町屋が斜めに構えて軒を連ね、ノコギリ歯のようにジグザグに並ぶ景観にあります。
ノコギリ型の町並みは、通称「川端通り」を中心とした、北側の「西の浜・天王地区」と南側の「南の浜地区」にとりわけ分布しています。
黒江の地区は古く万葉集に黒牛潟としてその名が詠まれた景勝地で、現在の黒江の地の大半は当時、海でした。
その後、土砂の堆積と地震などによる地盤の隆起により陸地化していきますが、池崎山がある為に、汀(海岸線)が斜めに形成されていきました。江戸時代初期に、当時盛んになっていた漆器業の為に、僅か五年間で計画的に遠浅であった干潟が埋め立てられ漆器従業者の宅地などが形成されていきました。
海岸線沿いに埋め立てがなされ、町の中央には自然に出来ていた水路が堀川として整備され、配されました。堀川は現在、川端通り下に暗渠にされています。
町は堀川に平行する幾筋かの通りと、汀に平行する小道で楯横に区画されました。しかし、この楯横の道が直交して交わらず、平行四辺形の町割り・宅地割りとなりました。
その為に、四角い家を建てるとその前に三角形の空き地が出来るようになったと推測されます。この他に、方位説、漆器製品や手押し車など物の置き場所説などがあります。しかし、これらの説明には矛盾するところが多く、ノコギリ潟の町並みの形成要因ではなく、家の前の三角形の空き地活用方法との混同ではないかと考えられます。
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7月
15
旧柳川邸 (黒江)
文化4年(1807)頃に建てられた江戸時代の商家として典型的な町屋で、昭和49年、国指定重要文化財の建築物に認定され、現在、紀伊風土記の丘に移築復元されている。
此処はその役宅跡です。
文政八年(1825)紀州藩より「塗物江戸積株」の官許を得て大いに江戸と漆器交易し、後日方組の大庄屋を務めた。
移築復原された旧柳川邸
柳川家は、近世以来漆器の製造販売を業とし、当代まで十一代続き、代々平兵衛を名乗り、五代目は大庄屋を務めた。
家蔵の記録によれば、文化四年(1807)四代目平兵衛の代に屋敷地を求めて普請したのが現在の建物である。この家は、もと人工の堀であった川端通りに面して建てられ敷地西側は入り江で船着場になっていたといわれる。主屋は、向かって左側に大戸口から裏に通り庭があり、その右手に田の字型に四室を造り、正面側が「みせ」と「みせおく」背面側が「だいどころ」と「なんど」で、その後ろに座敷を突き出させた町屋として標準的な間取りをもっている。
この建物は全体に保存がよく、また、材料はよく吟味され意匠も優れている。和歌山県を代表する町屋の遺構として貴重なものである。
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7月
12
黒江(熊野街道)
JR黒江駅
高校生と一緒にホームを歩いていたら教員に一般の方ですがと聞かれた。この駅は高校生専用の改札がある。
熊野街道
熊野街道は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称、紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。後者の中辺路は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋とも呼ばれる。
熊野街道は、摂津国渡辺津(窪津・国府津・高津・楼津ともいう。大阪市中央区天満橋京町付近)を起点に南下し、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)を経て、和泉国に入る。
和泉国瓦屋村(泉佐野市)で、それまで熊野街道の海側を並行して通っていた紀州街道が熊野街道に合流し、雄ノ山峠を越えて紀伊国川辺村(和歌山市)に至る。川辺村で紀州街道と分かれ、熊野街道は川辺村から紀ノ川を渡って南下し続け、紀伊国田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かった。なお、京からは渡辺津までは淀川を舟で下った。
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7月
9
樫井古戦場(大坂夏の陣)
大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は、元和元年(1615)4月29日、樫井の地で展開された。冬の陣の和議のあと、外堀を埋められた大坂方は、この度先手をとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余りの大軍を差し向け徳川方の和歌山城主浅野長晟の軍勢五千余りを押さえようと図った。
4月28日浅野方の戦陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松・樫井に移した。大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松・樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。
一方、大坂方はここで取り返しのつかない失敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし小勢で飛び出してしまった。29日未明、塙・岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がりここで決戦を挑んだ。壮烈な死闘が街道筋や樫井河原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方、はらはらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、ついに矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。
かくして樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じこの夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大坂城も落城し豊臣氏はここに滅亡したのである。
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7月
6
塙団右衛門
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死した塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛と号した。
大坂夏の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死した。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。
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7月
3
淡輪六郎兵衛
慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣・徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死した淡輪六郎兵衛宝篋印塔である。淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく紀州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死した。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。
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