知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年08月

旧谷山家住宅

谷山家は、和歌山県塩津の浜に建てられていた漁家である。近世の紀州における海運業の要地であった塩津で代々海運と漁業を営んできた。
現在の建物は棟札によって寛延2年(1749)に上棟されたことがわかる。

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建物は主屋と倉が直角に接続しているが、倉の材料は主屋よりやや古いと見られるので、寛延2年には主屋だけで建て替えられて、それまであった倉に接続されたと考えられる。
主屋は敷地にあわせて楯に長い台形の平面をしており、全体に居室が少なく、ほとんど吹き抜けの土間になっている。また、通りに面した正面に出入口を設けず、二階の窓に三重の戸が用いられたのは、海からの強風に耐えられる配慮である。

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この建物は建築年代が明らかな上、漁家として古いものに属し、全国的にも数少ない貴重な民家である。和歌山県では、この家の所有者より譲り受け、昭和44年に紀伊風土記の丘に移築し復原修理を行った。

和船

紀伊半島ではリアス式海岸の屈曲の大きな入江や河口などに形成された砂浜で地曳き網魚が操業されてきました。
特に和歌山県日高郡周辺の漁村に多く分布しており、平成4年の調査時には14ヶ所で行われていました。

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地曳き網とは、アミブネと呼ばれる和船2艘が、沖合の同一場所から網を置きながら左右に分かれて魚群を包囲し、両端の網を陸に引いて魚を捕る漁法です。
この和船(材質;スギ・ヒノキ・マツ)(規模;長さ11.05メートル、幅2.24メートル、高さ0.9メートル)は日高町産湯地区の新網によって昭和38年に造船されたもので、漁業近代化のなかで改良を加えられた部分が少なく、伝統的な形式をよく残していると考えられています。

楠木の巨木(古墳時代)

このクスノキの巨木は、周囲12メートル、直径4メートル推定樹齢350年で、平成23年9月紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号の通過後、紀の川(和歌山市六十谷橋付近)で発見されました。
放射性炭素年代測定法による年代測定で西暦700年前後まで生育していたものと判明し、古墳時代から奈良時代にかけてのクスノキと考えられます。

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和歌山県立紀伊風土記の丘にある特別史跡「岩橋千塚古墳群」が築造された同時期、発見現場近くで生育していたものと考えられます。

紀伊風土記の丘

紀伊風土記の丘は、特別史跡岩橋千塚古墳群を整備して、資料館、民家集落、植物園等を付設し、和歌山県の文化遺産を公開する施設である。
この公園の面積は50万平方メートル、域内の古墳は500余基を数え、6世紀に築造されたものが大部分を占めている。

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紀伊の国、紀氏一族の墳墓といわれ、全国まれにみる貴重な古代遺跡である。

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太田黒田遺跡

太田黒田遺跡は、和歌山駅の東側一帯に広がる大きな集落遺跡で東西約500メートル・南北約700メートルにわたる。現在の行政区画では和歌山市黒田の一部と太田にあたる。この地域の区画整理事業に伴い、昭和43年から昭和59年にかけて15回の発掘調査が行われた。
この調査で弥生時代の竪穴式住居跡18軒を初めとして、各時代の溝・井戸・廃葉穴など多数の生活遺構が検出され、大型の複合集落遺跡であることが判明した。

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調査で検出された大型の刳り抜き井筒を納めた井戸跡(奈良時代)からは、和同開珎・万年通宝あわせて16枚が出土した。
遺物としては大量の弥生式土器や石器などの弥生時代の遺物をはじめ、各時代の生活遺物がみられ、特に昭和45年に遺跡の東北部で出土した銅鐸は弥生時代の集落内に埋納された銅鐸として注目される。

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大阪市立科学館

大阪市立科学館は大阪中之島にある科学のミュウジアムです。

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太陽と惑星を実際の5億分の1の模型が設置されている。太陽は直径280僉地球は直径2.6僂竜紊砲覆討い襦

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太陽   赤道半径 696,000辧蔽狼紊量鵤隠娃糠棔法  ー転周期 25.38日
水星   赤道半径 2,440辧 仝転周期 87.97日  自転周期 58.65日
金星   赤道半径 6,052辧 仝転周期 224.7日  自転周期 243.02日
地球   赤道半径 6,378辧 仝転周期 1年      自転周期 1日
火星   赤道半径 3,396辧 仝転周期 1.88年   自転周期 1.026日
木星   赤道半径 71,492辧仝転周期 11.86年  自転周期 0.414日
土星   赤道半径 50,268辧仝転周期 29.46年  自転周期 0.444日
天王星  赤道半径 25,559辧仝転周期 25.559年 自転周期 0.718日
海王星 赤道半径 24,764辧仝転周期 164.77年  自転周期 0.671日
冥王星 赤道半径 1,195辧 仝転周期 247.80年  自転周期 6.387日 

中之島今昔物語

江戸時代は各藩の蔵屋敷が建ち並び天下の台所を支え、緒方洪庵は適塾を開設し医学のみならず文明開化の先駆者となり、堂島では米の集散地として米相場に先物取引の仕組みを編み出し、岩本栄之助は株の取引で財をなし中央公会堂を寄贈し社会貢献の先例をなした。

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日本銀行大阪支店、朝日新聞大阪本社、朝日放送、関西電力、大阪市役所などに働く人々、文化・経済の中枢機能が集積しています。
又、国立国際美術館、市立科学館、国際会議場、府立図書館、などを訪れる人々、明治維新に数多くの逸材を輩出した適塾は今も幕末の空気を漂わせ、現在最古の木造園舎を持つ市立愛珠幼稚園が隣接する。

愛珠幼稚園

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淀屋

淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目〜六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

淀屋橋

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宝永2年(1705)、五代目の淀屋廣當(よどやこうとう)が22歳の時に幕府の命により闕所(けっしょ)処分となった。廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として有名である。
闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。

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淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。
初代の岡本三郎右衛門常安(おかもとさぶろうえもんじょうあん)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、「淀屋」と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
二代目の淀屋言當(よどやげんとう)は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。寛永元年(1624)には「海部堀川」(かいふほりがわ)を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。寛永9年(1632)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。寛永15年(1638)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。

海南駅

初めて海南駅に降り立ったのが2016年4月17日、この日は熊野街道から熊野古道(小栗街道)を歩いた。
地元の人に熊野古道を丁寧に教えて貰った。

海南駅東口

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海南駅は、和歌山県海南市名高にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)紀勢本線の駅である。
日方地域に最初に出来た駅はこの駅ではなく野上軽便鉄道の「日方駅」である。「日方駅」は野上軽便鉄道の日方駅から野上駅(後に紀伊野上駅に改称)までの開通と共に1916年に開業した。日方地域に次にできた駅がこの駅で、旧来からの「日方駅」とは場所が違う。
当駅は1924年2月、国鉄・紀勢西線の最初の開通区間として和歌山駅(現在の紀和駅)から東和歌山駅(現在の和歌山駅)を経て箕島駅までが開通したと同時に、紀勢西線の日方町駅(ひかたまちえき)として開業した。「日方駅」は当駅の北東に位置していた。国鉄側からの要請で「日方駅」の構内に当駅への「連絡口」専用のホームが設けられた時期は後のことである。
「日方町駅」はその後1934年に海南市が誕生したことを受け、1936年に「海南駅」に改称、1959年には今の紀勢本線が全通し亀山駅と和歌山駅(現在の紀和駅)の間が紀勢本線とされている。「日方駅」は野上電気鉄道が1994年に全線廃止となり姿を消した。

熊野街道

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熊野古道(小栗街道)

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雄ノ山峠を越えて熊野へ参拝する熊野古道を小栗街道とも呼んでいます。小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて、熊野を目指してこの道を通ったためです。
判官は、湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は後に畿内五ヵ国(大和・山城・河内・和泉・攝津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。

海南駅西口
二度目は2018年4月27日、黒江駅から黒江の町を通り海南駅まで歩いた。

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万葉歌碑

       紀伊の海の 名高の浦に寄する波
                 音高きかも 逢はぬ子ゆゑに

「紀伊国の海の名高の浦に寄せる波のように、人の噂の高いことだなぁ。まだ逢ってもいないあの娘との間に噂が立ってしまったことよ」

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名高の浦とは、かつて海南市名高にあった浜で、万葉時代(約1300年前)には、この歌碑が建っているあたりが海岸線で、ここより遠浅の海が広がり、潮が引くと干潟となりそれに由来して日方という地名がついた。
名高の浦の波の音が高いのと、名高という地名に浮名が高く立つという意味も含め、まだ逢っていない女性との噂が高く立ってしまったことを嘆く歌である。
万葉集にはこの歌を含め、名高の浦を詠んだ歌が四首収められている。
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