知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年09月

八壺豆

伊勢に詣る人は必ず訪れたと云う、多度は古い門前町、多度山を背景に八壺渓谷みそぎの滝の前で茶店の老婆が片手間に創り始めたと伝えられ、八壺渓谷の名を冠したものでみそぎの滝の滴こと落ちる銀色に輝く水滴に形どったものです。

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当時の八壺豆は形も小さく色も黒ずんでいましたが大正時代になり製法に改良向上を加え近代人の好みに合うべく工夫致し、現在は八壺豆(通称 多度豆)とも云われ広く販売されています。
滋養豊富な高雅なる風味は萬人に適し、厳選した材料を独自の製法に仕上げた自然食品です。

美濃街道(多度)

多度駅(養老鉄道線)

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美濃街道は、一般に尾張の東海道宮宿と美濃の中仙道垂井宿を結ぶ脇街道を指すが桑名からも美濃国に至る街道が開けていた。七里の渡しから東海道を南下し、川口町と江戸町との境で西へ向かう道は三崎通り、堤原を経て再び左右に分かれる。
左側は照源寺や桑名駅へ向かう八丁縄手と称する道、右側は美濃・多度方面へ向かう福島縄手と称する道である。現在、堤原との分岐点に建っている道標は、弘化4年(1847)の建立で、「右みの多度みち」に加え、「左すてん志よみち」と彫り込まれている。「すてん志よ」とは、ステーションつまり駅のことで、明治28年に関西鉄道(現関西本線)桑名駅が開業し、左に進む道が駅に行く幹線道路となったため、従来からあった道標に新しく彫り加えたと考えられる。「右みち多度みち」の書体や彫りの深さと若干の違いが見られる。

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この美濃街道を多度道と称する人もいるが、正確には美濃街道が途中で多度道に分かれたものである。桑名は揖斐・長良・木曽の三大河川の河口に位置するため、上流の美濃地方と水運による交易が盛んであった。
福島縄手を行く街道は、すぐに国道1号線と重なり、住宅や商店、小工場などの市街地が続くが、天正時代までは一面に田が広がる道があったが昭和7年に国道が出来てから町並みを形成するようになっていった。その国道も1キロ足らずで東へ分かれていき、街道は国道258号の西側を養老鉄道線に進む。

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桑名市の多度町戸津は、古い町並みがよく残っており、、代々庄屋を務めていた西田家の長屋門と堀は風情漂う。戸津から多度川を渡って西に200メートルほど進んだ三叉路には、多度大社に参詣する人のための道標があり、東側には「すぐ多度道」と刻まれ、西側には多度大社からの帰路を示す「右つしま左ミの道」と刻まれている。

紀女郎

         昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花
                    君のみ見めや 戯奴さへに見よ   紀女郎(きのいらつめ)

(昼間は咲き夜は恋いつつ寝るという ねむの花です あるじだけ見るべきでしょうか おまえも見なさい)

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合歓木(ネムノキ マメ科 落葉高木) 

ヤマザクラ

桜(バラ科 落葉高木)

         春雨に 争ひかねて 我がやどの
                   桜の花は 咲きそめにけり   作者未詳

         (春雨に逆らいかねて家の庭の桜の花はほころびはじめた)

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うのはな

卯の花(ウツギ ユキノシタ科)

       春されば卯の花ぐたしわが越えし
              妹が垣間は荒れにけるかも    作者未詳

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万葉集は、日本最古の歌集で四千五百十六首の歌が集められています。その内、植物に関係する歌は、千五百首を越え、万葉びとは野山に出ては草木花と親しみ、それを摘んで食べ、薬にし、草木の汁で衣を美しく染めたりしました。

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和泉山脈

前方の山並みは和泉山脈である。左方面の加太海岸から次第に標高を増して右方向最高峰 和泉葛城山(857)へと続く、山麓の南麓には日本列島を南北に二分する中央構造線が横たわり、その南に紀の川が西流する。
紀の川の北岸には大和と紀伊を結ぶ古代の官道が通っている。額田王・山部赤人・笠金村をはじめ多くの飛鳥・奈良時代の歌人が歩いたであろうことに思いを馳せると「万葉集」に詠まれた世界がより身近に感じられる。

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     我が背子が 跡ふみ求め 追ひ行かば
               紀伊の関守い 留めてむかも
(私が、紀ノ國へ行った夫の足跡を探し歩いて夫を追いかけていったならば紀の関守は私を留めるであろう。追いかけて行きたいのだが。)

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岩橋千塚古墳群

岩橋千塚は、すでに江戸時代の天保年間にその存在が記録され、学術的な調査としては明治40年大野雲外がこの古墳群を調査して、石梁と石棚の架構された特異な横穴式石室を学会に紹介し、さらに翌年にはイギリス人N.G.マンロ−がヨ−ロッパで発表している。
本格的な発掘調査は、大正7年から10年かけて和歌山県が中心となって実施されその結果、歴史的に重要な古墳群として、昭和6年に国の史跡となり、さらに昭和27年には特別史跡に指定されている。

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前山A13号墳

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前山A32号墳

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岩橋千塚古墳群には、様々な形の古墳があります。古墳の形には円墳、方墳、前方後円墳などがあり、これらは上から見たときの形を示していて、円墳は丸く方墳は四角く前方後円墳は四角と丸を前後に組み合わせた形をしています。
沢山の古墳が密集したものを群集墳と呼びますが岩橋千塚古墳群は全国的にも特に大きな群集墳として知られています。丘陵上に前方後円墳が並び、周囲に円墳が密集している様相は、この古墳群の独特なあり方として注目されています。岩橋千塚古墳群の9割は円墳で残りの1割が方墳と前方後円墳です。

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旧小早川家住宅

この住宅は和歌山県の日高川上流の日高川町美佐の山間部に約250年前に建てられました。山間部にあった農家で主屋は南面して建てられ西には納屋がありました。
建築年代は18世紀後半と推定されています。向かって右には前後通しの土間があり、床上部分は「おもて」が主で全面に縁、背面に「なんど」がとられているきわめて小規模な住宅ですが二間取りという日本民家の初期の平面をよく残している建物です。

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また、大きな屋根を持つ建物で土間にはカマドがあり、部屋には暖房や食事に使う囲炉裏がありました。

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旧松村家住宅

この住宅は和歌山県の有田川を見下ろす段丘の平地に主屋と納屋が北面して建てられていました。主屋の建築年代は18世紀後半と推定されています。
向かって左が土間で床上部分は「おもて」「だいどころ」「なんど」を配した三間取りで左側面の外壁は軒一杯に造られ土間を広くしています。

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小規模農家の典型的な地方民家である。

竪穴住居

この建物は和歌山県和歌山市鳴神の音浦遺跡から発見された古墳時代の竪穴住居をモデルにして復元したものです。
竪穴住居とは、地面を掘りくぼめ、上に屋根をかけた半地下式の住居です。屋根の高さは地面から約4.5メートル、竪穴内部の広さは約4.5メートル×5.2メートルでおよそ23.4平方メートルの広さです。
この広さを畳(1.8×0.9メートル)に換算すると、14畳となります。

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建物の内部に入ると半地下式の土間が広がります。その中央には屋根を支える柱が4本立ち、食料などを蓄えるための貯蔵穴が掘り込まれ、また炊飯用のカマドがあります。屋根は入母屋造りに復元されています。
屋根の素材は茅ですが、当時は身近にあった植物で葺かれていたと考えられます。

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