知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2018年11月

妹がため 菅の実摘みに 行きし我
                山路に迷ひ この日暮らしつ    柿本人麻呂

   「妻のために 菅の実を摘みに 行った私は 山路に迷い この日を暮らした」

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菅=リュウノヒゲ・ヤブラン(ユリ科・多年草)

宝暦治水

木曽三川は、木曽川・長良川・揖斐川の順で河床が低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は、長良川、揖斐川を逆流し氾濫を繰り返していました。
徳川幕府による木曽川左岸の御井堤の完成(1609)により、美濃の水害がますます多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦三年(1753)、美濃郡代 伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩に命じました。

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宝暦四年二月、薩摩藩家老の平田靭負を総奉行として工事が始められ、油島締切、大槫川洗堰締切などの大工事を1年3ヶ月で完成しました。しかし、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。

通り井

桑名は木曽川の土砂が堆積してできた土地であるため、海岸に近い所は昔から水質が悪く、住民は飲み水に苦しんでいました。町屋川や大山田川から水を汲んできて売る「水売り」の商売が成り立っていたほどでした。
桑名藩第四代藩主松平定行は、寛永三年(1626)、町屋川の水源から吉津屋御門(現在の吉津屋町と鍛治町の境目付近)までを掘って水路を作り、御門から町の中へは地下水路を通し所々に井戸を設けて住民の用水にしました。

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この水道は「町屋御用水」と呼ばれ、明治時代まで使用されました。井戸の数は、始めは吉津屋に三ヶ、京町に二ヶ、宮通筋に六ヶでしたが寛永十二年(2635)には片町筋に四ヶ、船場に五ヶ新しく設けられ、江戸時代中頃には二七ヶ所にまでなりました。
現在、町屋御用水の跡はありませんが、江戸町に「井」の印を見ることができます。これは「通り井」があった場所をしるすものです。通り井とは「通り道に設けられていた井戸」の意味です。

歌行燈句碑

       
明治の文豪・泉鏡花は、大泉原村の高等小学校で講演するため明治42年に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の『新小説』に発表した。

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昭和14年、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万次郎は船津屋に泊まり、3ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された。上演・映画化にあたり、万次郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
俳人としても著名だった万次郎が、船津主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
         −  かはをそに 火をぬすまれて あけやすき  −

七里の渡

桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28辧砲△襪海箸ら、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢國の東の入口にあたるため、伊勢神宮「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられました。
七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。

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昭和33年、七里の渡跡は三重県指定史跡となり、昭和34年には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は江戸時代と異なる表情を見せています。

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蟠龍櫓

桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されている。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうち最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図絵」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

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「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖龍として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いています。蟠龍櫓についても航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

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柿本人麻呂

         古に 妹と我が見し ぬばたばの
                   黒牛潟を 見ればさぶしも   柿本人麻呂

    「その昔 妻と私が一緒に見た(ぬばたまの)黒牛潟を見ると何とも淋しい」

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ぬばたま=ヒオウギ(アヤメ科 多年草)

刻印石(桑名城跡)

桑名城跡の管理事務所東に「刻印石」が5つあります。城の石垣の石にはさまざまな模様や記号が刻まれています。
これを「刻印」といい、刻印は築城に係わった関係者による家紋、家印、符丁、石の産地などを示したものです。

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刻印石は和歌山城や大坂城などでも見ることができます。

本多忠勝(徳川四天王・初代桑名藩主)

本多氏は古くから三河松平家に仕えた家柄であった。天文17年(1548)生まれの本多忠勝は6歳上の徳川(松平)家康の将として旗本の兵を束ね、大活躍を続けた武将である。
13歳で桶狭間の戦いに従軍してから53歳の関ヶ原の戦いに至るまで、主君家康の重要な戦いのほぼすべてに参加した忠勝は、のちの世になっては幕府の基礎を固めた人物として「徳川四天王(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政」の一人に数えられる。

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元亀1年(1570)徳川家康が織田信長に従い浅井・朝倉と戦った姉川の戦いでの勇猛果敢な突撃、また、元亀3年(1572)、武田信玄と戦った三方原の戦いでの奮闘ぶりが有名で、三方原では武田方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(家康の兜 中国から輸入されるヤクという動物の尾で飾られた)に本多平八(平八は忠勝の通称)と称賛されている。
さらに天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と対決した小牧・長久手の戦いにおいては、秀吉の大軍をわずか500の小勢で挑発、その堂々たる態度は、のちの秀吉をして「西の立花宗茂、東の本多忠勝」「天下泰平になれば忠勝に若者たちの武道教育をさせよう」と嘆賞せしめた。

黄昏の狭山池

たそがれの狭山池
平成の大改修が行われ池の周囲に遊歩道が設置され多くの市民が利用している。周囲約3辧速歩で歩いているが、これからの季節は北西の風が湖面を通ると手が痺れる。

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狭山池は飛鳥時代に築造された我が国最古のダム式ため池です。飛鳥時代前期、朝廷によって西除川と三津屋川の合流点付近を堰き止め築造したとされていますが、正確な築造年は明かでは無く、4世紀〜7世紀の改修記録が残る時期まで幅広い説があります。古事記や日本書紀にもその名が記されています。
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