知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2019年05月

北ノ庄城

北ノ庄城は柴田勝家が築いた城で九層の天守閣が天高くそびえていたといわれる。その立派な城も天正11年(1583)4月、羽柴秀吉に破れた勝家は、自ら火を放って婦人のお市の方とともに、壮烈な死をとげ消失した。

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   柴田勝家
       夏の夜の夢路はかなきあとの名を
                雲井にあげよ山ほととぎす
     (夏の夜のように短くはかない私の名をのちの世にまで伝えてくれよ山ほととぎす)

   お市の方
      さらぬだに うちぬる程も夏の夜の
                別れをさそうほととぎすかな
     (夏の夜のほととぎすの鳴き声が別れの悲しさをさそっているように聞こえる)

養浩館(その五)

慶長6年(1601)から初代藩主・結城秀康が築いた城下町は、幾重にも堀がつくられ、城や屋敷群が、まるで広大な水面に浮かんでいるかのようで、この圧倒的な水の空間に刺激をうけた感性から、養浩館庭園の他に類のない水の景色が生まれたのかとも思われるほどです。

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「水の都」の「水の庭園」 −福井藩主松平家の別邸

庭園や建物の専門家双方から絶賛されているのは、優れた水の造形と、庭と屋敷の見事な一体感です。作庭は江戸時代、福井城下に五重にめぐらされた堀の外堀沿いにあり、その豊富な上水を最大限に活用した優美かつ幽玄な水の庭園です。

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養浩館(その四)

養浩館庭園は、その数寄屋造りの建造物と庭園が早くから注目され、すでに戦前に建築や庭園の専門家による調査がなされ、学術的に高い評価を受けていました。
昭和20年の福井空襲による建造物の焼失後も、庭園はよく現在に伝えられていたため、昭和57年には、「良く旧態を残した優秀な庭園である」として国の名勝に指定されています。これを機に、文政6年(1823)の「御泉水指図」を基本に、戦前の調査時の古写真や、新たな発掘調査などをもとに復原整備が進められ、約8年の歳月の後、平成5年に完成し、一般公開されました。
養浩館庭園では、発掘された遺構の上に直接建築するという画期的な手法がとられ、屋敷から庭を眺める視線の高さが当時の状態に保たれています。また、名勝庭園ではめずらしく、かつての藩主と同じように座敷からゆったりとお庭を眺めることができます

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白ノ御茶屋跡(養浩館)

白ノ御茶屋跡は、文政六年(1823)の古絵図「御泉水指図」にも見られ、東側には、床と棚を持つ10畳の茶室と御次(12畳)、西側には、御待合(6畳)と御雪隠(便所)が配置され、、縁で連絡される構成であった。
昭和63年の発掘調査で基礎等が検出された。建物南側2段が現在は道路敷きになっているため、建物の復元はできず、礎石を表面的に復元表示している。

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養浩館(その三)

吉品(よしのり)の没後、その規模は元の御泉水屋敷の敷地に戻り、引き続き、茶会・饗応の席や藩主一族の休養の場、住居などとして使われました。
その後、明治維新によって福井城は政府所有となりますが、御泉水屋敷の敷地は松平家の所有地として、福井事務所や迎賓館の機能を果たしています。
「養浩館(ようこうかん)」の名は明治17年、松平春嶽によってつけられました。「人に元来そなわる活力の源となる気」、転じて「大らかな心持ち」を育てることを意味するようになった孟子の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」に由来すると言われています。
大正2年には、元首相の大隅重信夫妻をもてなすなど、昭和初期まで越前松平家休養や迎賓等の場として使われ続けました。

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養浩館(その二)

寛文5年(1665)には、4代藩主光通が、御泉水屋敷にて、家臣を集めて宴を催したり、武芸を観たりしています。また、延宝3年(1675)には、5代藩主昌親(まさちか)が相撲を観て楽しんだことが文献に残されています。

現在の姿に整えられたのは、7代藩主昌明(まさあき、のち吉品と改名、元5代藩主昌親)の頃で元禄年間(1688〜1704)とされています。宝永2年(1705)には、東府麻布広臨寺の節外和尚に茶を饗したことが記録されています。宝永5年(1708)には、従来の御泉水屋敷である「本御泉水」に加え、西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所としました。この時、御泉水屋敷の敷地は最も広くなり、今の養浩館庭園・お泉水公園・郷土歴史博物館を合わせた程の大きさとなりました。

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養浩館

この庭園は、数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園で、江戸時代初期から中期を代表する名園の一つです。
かつては、福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「御泉水屋敷」と称されていました。福井城の本丸から北東約400辰琉銘屬砲△蝓∧^羮襪粒伊戮療攀錣棒椶靴討い泙后
成立時期については詳らかでない点が多いが、3代忠昌時代に藩邸となり、城下を流れる芝原上水を引き込んで御泉水屋敷となったと伝えられています。
御泉水屋敷の文献上の初見は明暦2年(1656)で、4代藩主光通の側室が御泉水屋敷において男子(権蔵)を産んだと福井藩の歴史書である『国事叢記』などに出てきます。

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岡倉天心

岡倉天心、名は覚三。越前藩士の子として生まれ、幼少より英文、漢籍に親しみ東京大学を卒業後に、文部省に奉職、日本美術の振興、文化財の保護に尽力、東京美術学校長を辞職後、雅邦、大観、春草、武山らを率いて日本美術院を創立し近代日本画を育成、米国に渡りボストン美術館東洋部長として「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など英文著書を著す一方、米国各地で講演しその高い識見、円満なる人格は西欧人より深く尊敬された。

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黄金塚

黄金塚には楠木正成が黄金を埋蔵したという伝承があります。
「朝日さし夕日かがやくみつばうつぎのその下に小判千両のちの世のため」という歌も伝えられています。
また、長野公園(長野地区、河合寺地区)は楠木正成が築城した「河合寺城」跡地でもあり、長野地区の展望台付近が河合寺城本丸跡地であったと伝えられている。

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元弘二年(1332)楠木正成の設けた城塞の一つとしてここ長野公園に河合寺城という出城がありました。鎌倉幕府と後醍醐天皇との戦いで天皇側であった楠木正成は千早城にて約1000人の軍で幕府側数十万人軍を迎え撃ちました。
圧倒的に不利な状況で戦いの天才であった楠木正成は当初は2,3日で負けると言われた戦いを約半年にわたって守り抜き、そして最後には退却に追い込みました。
河内の山々に築いた出城を駆使し敵を翻弄したのです。その激戦の最中、後の世を考えこの黄金塚が築かれたと伝承されています。

狭山池まつり2019

趣意文
『私たちのふるさと大阪狭山の真中に周囲一里の狭山池があります。歴史的価値の高い日本最古の人口のため池としてはるか遠い飛鳥の時代から、悠久の時を刻んできたふるさとの誇りです。時には干ばつや洪水に耐えて人々を救い、時には、狭山のシンボルに、また、憩いの場として親しまれ、愛されてきました。そして平成の改修によってその歴史・文化的価値は、より大きなものとなり、今では、大阪、日本、そして世界への誇りなのです。この狭山池には、池の貴重な土木遺産を展示保存し未来に継承すべく、狭山池博物館があります。また、水と緑に親しみ、想いやくつろぎを与えてくれる場でもあります。
地域に暮らす人すべてが狭山池に集い、豊かにコミュニケーションいていく新しい大阪狭山の文化と活力は、ここから生まれるのです。私たち市民が力を合わせて素晴らしい「狭山池まつり」を創りあげようではありませんか。』

さやか公園

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堤エリア

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今年の「狭山池まつり」は出店も多く天気も良かったこともあり人出も多く今までの最高となった。
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