知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2019年07月

旧森田銀行本店

九頭竜川の河口に位置する三国町は、古来より越前の玄関口と言うべき経済の要港として発達してきた。その三国湊にあって中世以来綿々と港の発展を支えてきたのが、回船業を生業とした豪商森田家である。
明治時代になり回船業の衰退を察知した森田家は1894年に森田銀行を創業し、業種転換を図った。森田銀行は確かな信用のもと、県内上位の優良な銀行に成長する。そして1920年洋風のこの建物が新本店として落成した。

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外観は西欧の古典主義的なデザイン、内部は豪華な漆喰模様が美しい。細部のデザインや技術へのこだわりは建築思想の質の高さの表れであり、県内に現存する鉄筋コンクリート造りの最古のものである。

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設計技師は横浜市開港記念会館も手がけた山田七五朗氏で大工棟梁は地元の四折豊氏である。森田銀行はその後、福井銀行と合併したことから近年迄福井銀行三国支店として営業されていたが1994年三国町の財産となり、詳細な調査を踏まえて復元保存工事を行った。
三国町はこの建物を三国湊繁栄をしのぶ文化遺産として保存に努め活用を図るものである。

内田本家跡

内田家の祖は朝倉氏の家臣と伝えられ、元禄16年(1703)に三国湊へ来住し、屋号を室谷と号し、回船業を営み財をなし、三国湊の要職を務めた。

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中でも、六代目惣右衛門は、天保の大飢饉に際して三國神社の造営整備事業を主唱実行した。窮民を救済するという大きな功績は永く称えられた。今は庭にあったタブノキがその面影を伝える。

旧岸名家

旧岸名家は代々新保屋惣助(屋号新惣)を名乗り、木材商を営んだ。この建物は川方の商家造りの典型である。建築様式は妻入りの全面に平入りの屋根を伴った「かぐら建て」という三国湊独特のもので、江戸後期に建てられ、明治大正昭和と時代にあわせて改造された。

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先祖は宝永4年(1707)創設された俳諧の結社の初代宗匠で岸名昨曩(きしださくのう)と称す。平成16年三国町が修復して一般公開、平成17年国登録有形文化財に指定。

三国湊は粋かいな

三国は江戸時代(350年前)北前船の寄港地として栄え、江戸末期から湊の周辺には花街が賑わいました。料亭・御茶屋(19軒)が並び芸者置場(17軒)貸座敷(遊郭28軒遊女約100名)などがありました。芸妓の多い時は80人近くいたといわれています。
三国芸妓は日本でも5本の指に数える程の高い芸を持ち江戸時代の番付表(色道大鑑)の上位にランクされています。

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歴史を飾る松ヶ下の遊女・三国小女郎。そして遊女俳人歌川の句「奥底の知れぬ寒さや海の音」は大変有名です。
三国が豊かに繁栄したのもこの花街の芸妓・遊女の陰の活動があったからと考えられ、当時は三国の演舞場(芸妓のための三味線・舞踊・笛・太鼓の稽古場)から熱心に、「芸」を磨く音色が流れていた。その芸妓が残していった、お座敷唄と三味線は、三国を代表するものの一つです。

幸橋

幸橋は、福井市街を二分する足羽川に架かる橋で有り中心部の中央と毛矢を結んでいる。江戸時代、中級武士の居留地「毛屋(毛矢)」の対岸は、城郭の中心部であることから架橋を許されず、毛矢侍が城え出仕する際には、両岸に渡した綱をたぐって往来する繰舟を用いていた。
ところが、貞享3年(1686)に福井藩領が半減し、多くの浪人が生じて毛矢の武家地も空屋敷となったため繰舟も廃止された。

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その後、亨保6年(1721)に支藩の松岡が廃藩となり、松岡より移住した武士のために毛矢の家中屋敷が復活した。元文4年(1739)に毛矢侍の要請で繰舟渡しが再開されたが利用できたのは藩士と武家奉公人のみ、時間も朝6時から夕方6時頃までと「繰舟御条目」によって制限されており、このような不便な状態は幕末まで厳守されていた。
文久2年(1862)に毛矢侍の由利公正が要職に抜擢され、その提案により木造橋が架けられた。宿願かなった人々は、これを大いに喜び「幸橋」と命名した。
その後も明治20年、同38年にも木造橋で架け替えられた。

旧毛矢町

享保16年(1731)、松岡藩が福井藩に吸収された際、旧松岡藩士の多くが旧毛矢町に移住し、「毛矢侍」と呼ばれた。「五箇条の御誓文」の原案を作成した由利公正(三岡八郎)も毛矢侍でした。

     由利公正(三岡八郎)

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明治10年、当地に「福井職工會社」が設立されました。京都で近代的製職法方法を学んだ細井順子は、この福井職工會社で優秀な絹織物織工を数多く育成しました。毛矢町は、後に「羽二重王国」といわれる福井の絹織物産業の発展に大きく貢献したのです。

俵万智

さくら

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「啓発録」橋本左内

「啓発録」は嘉永元年(1848)郷土の偉人橋本左内が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。

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おくの細道の旅

松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月27日、曽良を連れ立って東北、北陸を巡る旅に出ました。この旅は同年8月21日、大垣(岐阜県)に到着して終わりますが、これが有名な『おくの細道』の旅です。
芭蕉が北陸越後(新潟県)に入ったのは7月初めで、1ヵ月後の8月10日頃に加賀大聖寺を経て越前(福井県)に入りました。松岡で一泊したのち福井の洞哉を訪ね、ここで2泊して敦賀へ向かいます。
越前を数日かけて旅したことになります。

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越前での句は「おくの細道」で5句よまれています。
松岡
物書きて扇引きさく余波哉
敦賀
月清し遊行のもてる砂の上
名月や北国日和定めなき
いろの浜
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
波の間や小貝にまじる萩の農
これらの句の他にも、芭蕉がこの旅で詠んだ句が知られています。そうした句からは芭蕉が西行を代表とする古典に詠まれた名所に引かれて行脚をしていたことが伺えます。

洞哉

洞哉は、松尾芭蕉の紀行文「おくの細道」に福井の俳人等栽として描かれた人物です。洞哉については、江戸時代の記録等から同書で書かれた等栽の他、等栽、可卿等の俳号をもつことが知られているのみで、その人物像は全くわかっていません。

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洞哉の住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、俳人石川銀栄子氏の研究から、洞哉が芭蕉の枕にと木片を借りたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになりました。
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