知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2020年03月

思い出の一枚(萩城下町)

萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。
白壁となまこ壁や黒板塀の美しい町並みが続き、維新の志士ゆかりの地が点在しています。

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思い出の一枚(常栄寺庭園)

この庭園は、室町時代の中頃妙喜寺と言っていた庭として大内政弘が画聖雪舟に命じて築造させたものと伝えられている。
内庭は、30アールの広さで背景の山林も指定地となっている。北側には枯滝があり、中央には心字池があり、その周囲には庭石を豊に配している。
内庭は、石だけで作庭され、その石は室町時代の庭園の特色となっている立石が多く使用されている。この庭は水と石とに主体をおいて簡素であり豪放であり、岩のもつ堅さすなわち岩の意志ともいうべき頑丈さをよく生かしていて、直線と角との最大の巨匠であると評された雪舟の山水画を見るようである。

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思い出の一枚(巌流島)

「巌流島の決闘」
慶長17年(1612)4月13日、舟の形に似ていることから「舟島」と呼ばれる彦島沖に浮かぶ小島で、武蔵・小次郎が雌雄を決した。小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。試合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島へ。「武蔵 遅参とは何事か 臆したか」というや物干し竿を抜き打ち鞘は波間へ、それを見た武蔵はにやりと笑い叫んだ。「小次郎破れたり」

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関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250辰砲△蝓∨銘爾望山があるほかは平らな島で、現在は無人島です。この島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。

思い出の一枚(金子みすゞ)

金子 みすゞ、(1903年4月11日 )は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
本名、金子 テル。 大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。

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山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)の生まれ、郡立深川高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業、父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[をとげる。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。
1926年、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格である宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年2月に正式な離婚が決まった。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、享年28〈数え年〉、26年の短い生涯を閉じた

狭山池満水近し

平成の改修以来、最高に水が抜かれた狭山池、ほどなく満水となる。15日は曇りのち雨・あられの天気で山は雪が残っている。
狭山池の貯水量280万立方メートル、満水面積36ha


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百舌鳥(堺市)古市(藤井寺市・羽曳野市)古墳群が世界遺産に登録され、藤井寺市の観光協会へいったが新型コロナウイルスの関係で3月20日まで休みとなっていた。大阪も感染者が100人を超えている。
当面の間、「思い出の一枚」で更新しょうと考えている。

若き日の想い出

16〜17歳の頃、友と天橋立に自転車で行った。記憶にはないが一泊したのだろう。翌日、疲れがでたのか駅から自転車を送り汽車で帰ってきた。トンネルがあるたびに窓を閉めたのを覚えている。

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天橋立の「股のぞき」のことは昔より誰言うとなく巷に流れたもので今日では全国的な愛称となっている。各所に設けてある「股のぞき台」の上で股をひらき頭を深くさげていると、だんだん頭に血が充血して目が廻るようになり、まさに天橋立が幻想的に紫紺の空に続くようになる。

     神の世に 神のかよいし 跡なれや
               雲居につづく 天橋立   村田春海 

若き日の想い出

若き頃、水上勉著「湖の琴(うみのこと)」を読んだ。大正末期、滋賀県余呉湖の賤ヶ岳山麓の村で生糸を紡いでいた若い男女の悲恋物語である。
友と一緒に余呉湖へ行った。余呉駅を降りると一面真っ白で何も見えなかった。私達は時間をかけて湖を一周した。

賤ヶ岳から余呉湖を望む

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現在の余呉駅(当時の駅舎は記憶にない)

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「大正末期、若狭から賤ヶ岳の麓の西山の生糸製造農家へ奉公に来た「さく」と「宇吉」はお互いに惹かれるところがあり、助け合いながら暮らしている。さくは京都の長唄の師匠「桐屋紋左エ門」に見初められ、京都へ移る。やがて師匠の子を身ごもったさくは西山へ帰り、心優しい喜太夫夫婦に慰められ、宇吉と一緒にいることの幸せをかみかめるが、自分の身体は穢れていると嘆き、お腹が大きくなって隠し切れずに自殺する。宇吉はさくを余呉湖の深い淵へ沈めることを思いつき、その遺体を入れた箱に自分も入れて余呉湖に身を投げる」

御廟山古墳

御廟山古墳は前方後円墳で、墳丘は3段に築かれ南側のくびれ部のみに造り出しがあります。墳丘の周囲には、かつては二重の濠が巡っていましたが外濠は埋没しています。
発掘調査の結果、墳丘の一段目テラスには円筒埴輪が隙間なく並べられていることがわかりました。造り出しとその周辺からは囲形埴輪と家形埴輪のほか、様々な形象埴輪やミニチュア土器、魚・笊(ざる)を表した土製品が見つかりました。これらは造り出しで行われた祭祀の一端を示していると考えられます。

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事件です

3月4日、朝食後にテレビを見ていると上空が騒がしい、ヘリコブターが3機旋回しているという。暫くして1機増えて4機が旋回している。何があったのだろうか。
大阪府警の「安まちメール」に登録している、地域を指定すれば地域ごとの事件、キャンペーンなどが送られてくる。
「安まちメール」によると、
3月4日午前7時45分頃、大阪狭山市岩室1丁目付近路上上において、成人男性が、刃物で刺されるという事件が発生。犯人は、年齢20歳前後、身長170〜175センチ位、ぽっちゃり型の男性で、その場から逃走しました。

写真中央付近が岩室1丁目付近、直線距離で約2

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テレビのニュースによると犯人は南に逃走したと報道。
現場には西高野街道と天野街道が北から南に走っている。西高野街道は和歌山県境まで民家が多い。犯人が地理に詳しければ天野街道を逃げるはず、なぜなら山道になるから目撃されにくい。

善右エ門山古墳

善右エ門山古墳は、いたすけ古墳の後円部南東側堤に接する位置にあり、築造時期も近いことから、いたすけ古墳と関わりのある古墳(陪冢)と考えられています。
いたすけ古墳の北東にあった吾呂茂塚古墳は、造られた場所や古墳の向きから善右エ門山古墳とともにいたすけ古墳の陪冢とみられます。

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過去の発掘調査によれば、周囲の濠が巡らないことや、墳丘が2段に築かれ、1段目斜面と2段目斜面の間の平坦には礫が敷かれて、円筒埴輪の巡ることがわかりました。
円筒埴輪は南側で1.7叩∪沼Δ韮沖辰箸い広い間隔で立て並べられていることが特長です。百舌鳥古墳群において、これほど広い間隔で埴輪が並ぶ古墳はほかにありません。

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