知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2020年04月

城下町勝山(思い出の一枚)

・・・ 城下町勝山の歴史めぐりの旅 ・・・

静かな時間が 似合う街 勝山
ふと、空を見上げると もう雨は上がっていた。
ほんのみじかい通り雨だったようだ。
小さな水たまりを残して街はしっとりとした空気に包まれていた。
「あぁ、ここは城下町なんだ」昔から、出雲街道沿いに栄え
歴史と伝統につちかわれた街 勝山
この街には静かな時間が似合うようだ。

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閑谷学校(思い出の一枚)

池田光政(1609〜1682)岡山藩三代藩主
慶長14年(1609)姫路藩主池田利隆の嫡子として岡山に生まれる。母は二代将軍秀忠養女の鶴子。元和二年(1616)父利隆没後、姫路藩主を継ぐが年少を理由に鳥取(因幡・伯耆)に移風される。
寛永九年、(1632)伯父である岡山藩主池田忠雄が死去し、嫡子光仲との国替えにより岡山藩主となる。妻は天樹院千姫の娘勝子。

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儒学における仁政の実現をめざし、陽明学者熊沢蕃山や津田永忠を重用し飢民救済や新田開発、藩政改革等により岡山藩の基礎を固めた。
また、寛文六年(1666)藩士子弟のために石山仮学館(同九年西中山下に藩校新設)、寛文八年(1668)庶民のために領内に百二十三ヶ所の郡中手習所、寛文十年(1670)閑谷学校を建設するなど領民の教化に情熱を注いだ。

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宗鏡寺庭園(思い出の一枚)

沢庵和尚の遺跡として知られ本堂東側に裏山から流れ出る水を利用した地泉庭園がある。池の形状は横に長く鶴の形をし、そのほぼ中央に亀島を築いている。
対岸右手奥には滝口があり、滝口の傍らには巨石の逢来石を立てている。亀島の石は小石ながら亀の姿をたくみに表現しており江戸初期の手法を表している。
対岸の斜面には多数の石を配し、サツキ、ツツジ、カエデ、カシ、マツ、ツバキ、マキ、アセビ、などの植栽を配した鑑賞庭園である。

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竹田城跡(思い出の一枚)

竹田城は嘉吉年間(1441〜1443)に、守護大名の山名持豊が有力家臣の一人である太田垣に築かせた城である。その頃の竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。壮大な石積みの城郭になったのは廃城時(慶長5年ー1600)にごく近い時代と考えられている。

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竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。
また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。規模は南北約400叩東西約100辰任△襦

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この石垣は建築技法からみて穴太積みを採用している。穴太積みとは、近江国(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣といえよう。野面積みとは、加工を施さない自然石をそのまま積んだもので隙間が多く一見して粗雑に見えるが水捌けが良く崩れを防ぐ。

思い出の一枚(姫路城大改修)

車に自転車を乗せ兵庫県竜野に行き、市中を廻った後、姫路まで自転車で走った。待ってくれていた自転車仲間が言うには今日は姫路城が無料で見学できると、鹿島建設が行った姫路城大改修、見学者は多かったがこの位置からの見学は長生きしても二度と見ることは出来ない。

工事中の姫路城大天守

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思い出の一枚(斜陽館)

斜陽館は1907年(明治40年)に太宰治の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって建てられた。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。

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太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
その後、旅館の経営が悪化し経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。こうして1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。

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思い出の一枚(家老屋敷)

家老屋敷 西郷頼母邸
西郷家は、會津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた千七百石取りの家柄であった。江戸時代中期の和様建築の粋を集めた豪華かつ壮大なこの家老屋敷は、敷地面積2400坪、建築面積280坪を誇り、38室もの部屋を擁していた。
四脚門や式台玄関、それに冠振りぐしに九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、格式の高い西郷家ゆえに許された特権であった。

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思い出の一枚(麟閣)

茶室「麟閣(りんかく)」

今からおよそ四百年前、わが国茶道の大成者である千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ死を命じられました。この時、豊臣秀吉の怒りが千家一族へ及ぶのを恐れた会津領主 蒲生氏郷は利休の子、小庵を会津に匿い千家が再興できるように秀吉に願い出たのです。
その結果、秀吉の怒りが解け千家再興が許されました。この蒲生氏郷の恩義に報いるべく小庵が建てた茶室が「麟閣」と伝えられています。

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また、再興が許されたのち千小庵の孫により、武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され現在の隆盛を見るに至りました。

思い出の一枚(日新館)

會津藩校(白虎隊の学舎)日新館

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什の掟
1.年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
1.年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
1.虚言を言うことはなりませぬ
1.卑怯な振舞をしてはなりませぬ
1.弱い者をいぢめてはなりませぬ
1.戸外で物を食べてはなりませぬ
1.戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
     ならぬことは
         ならぬものです

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思い出の一枚(旧野麦街道)

何年にも渡って野麦峠に行ってみたいと思い続けていた。2007年10月14日、午前8時過ぎに野麦峠に立つことができた。

野麦峠 岐阜県側から長野県側を見る
標高1672辰里海殻酣峠は信州との国境、明治大正時代にはこの峠を越え長野県の製糸工場へ大勢の飛騨の女性が糸引きの出稼ぎに向かいました。厳しい労働条件の中で病に倒れ兄に背負われ峠を越え飛騨へ帰る途中、「あゝ、飛騨が見える」と言って息途絶えたと言う秘話は有名です。
ここから西方(飛騨)に位置する野麦の集落へは約6劼了各擦続く。

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旧野麦街道を長野県側に下ってみた。

江戸時代、松本と飛騨高山を結ぶ道は信州側では一般に「ひだみち」と呼ばれ幾つかのルートがありました。
松本から、入山、古宿、野麦峠を経るルートも利用されていました。この道が一般的に野麦街道と言われ松本から野麦峠までの呼称となっていました。
野麦峠を越える道は、当時天領であり代官所があった飛騨国高山と江戸を結ぶ道として利用されるとともに、信濃から米、清酒などが、飛騨からは(ブリ・飛騨と呼ばれた)、塩等の海産物や曲物、白木などが運ばれました。
明治期に飛騨三郡と中南信の四郡が一緒になって築摩県が置かれると、本庁のある松本と支所のある高山を結ぶ連絡道路としてこの道は重要視されました。また、岡谷をはじめとする諏訪地方で製糸業が盛んな頃は、飛騨地方の女工たちが往来する道でもありましたが主として利用されたのは入山を通るルートでした。

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