知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2020年06月

九人の乙女の碑(思い出の一枚)

この碑は終戦時、樺太の真岡(現・ホルムスク)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられてものです。北緯50度線でソ連と国境に接していた樺太では1945年8月、ソ連軍の不意の攻撃を受け40年間に渡る国境の静寂が破られました。
島民の緊急疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険のなか、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが『皆さんこれが最後ですさようなら、さようなら・・・』の言葉を残し、青酸カリを飲み自らの命を絶ちました。終戦5日後、8月20日のことでした。

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宮沢賢治文学碑(思い出の一枚)

1923年8月、宮沢賢治は、この年の5月に就航したばかりの稚泊連絡船で宗谷海峡を渡り、樺太(現サハリン島)を旅しました。前年に最愛の妹・トシを亡くした傷心の賢治は、この旅をモチーフに多くの詩を残しています。
この碑に刻まれているのは未定稿の門語詩『宗谷(二)』の一説で、彼の心情がみごとに凝縮されています。この碑を建立したのは宗谷要塞砲兵連帯宗谷会の人達で僚友の霊に対する深い哀悼と平和への祈りを込めてこの碑を「平和記念碑」命名しました。”サガレン”は、サハリンの古い呼称です。

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間宮林蔵(思い出の一枚)

江戸幕府からの命を受け北方探索に赴いた間宮林蔵は、1809年間宮海峡を発見して樺太(現・サハリン島)が島であることを確認しました。
この発見は当時の世界地図の空白を埋める偉業であり林蔵は世界地図にその名を残しました。その後、師である伊能忠敬の事業を引き継ぎ、蝦夷地の地図作成にも多大な貢献を果たしています。

このブロンズ像は、彫刻家・峯孝氏の作品で、林蔵が樺太へ渡る決意を秘め、遙か海の彼方を見つめる姿を表しています。

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宗谷岬(思い出の一枚)

日本最北端の地の碑
この碑は現在私たちが自由に往来できる日本の領土としては最も北に位置する宗谷岬の突端、北緯45度31分22秒に建てられています。北極星の一稜を象徴した三角錐をデザインしており、中央の”N”は北を、台座の円形は”平和と協調”を表しています。
対岸のサハリン島クリリオン岬までは43劼曚匹竜離で、天候に恵まれると背後に広がる宗谷海峡の彼方に、かつて日本領(樺太)だったその島影を望むことができます。

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宗谷岬「音楽碑」
黒御影石の碑面に歌詞と楽譜が刻まれているのは、ここ宗谷岬の春の光景を歌った郷土の歌「宗谷岬」です。地元で活動を続けてきた吉田弘さんが詞を作り、演歌の大御所・船村徹さんが作曲しました。
1976年にNHKの音楽番組『みんなの歌』で、ダ・カーポが歌う曲が全国に紹介されヒットしましたが、ほかにもボニージャックス、千葉紘子さん、芹洋子さんなど、多くの歌手により歌われてきました。『宗谷岬』は最果ての旅情をかきたてる叙情歌として、今も人々に歌い継がれています。

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ウスタイベ千畳岩

ウスタイベ千畳岩は北海道は稚内市の南東部に位置する枝幸町の海岸。北オホーツク道立自然公園内に位置しています。安山岩が畳敷きのように見えるので、千畳岩と名付けられました。ウスタイベとは岬の名前で、ウスタイベ岬の先端に千畳岩があります。敷地内には駐車場・トイレ・炊事場があり、設備の整ったキャンプ場として評判のウスタイベキャンプ場が開設されています。

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サロマ湖展望台

「サロマ湖」
サロマ湖は、北海道 オホーツク海岸の北見市、常呂郡 佐呂間町、紋別郡 湧別町にまたがる霞ヶ浦についで日本で三番目に大きい湖。

展望台からのサロマ湖

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「キタキツネ」
展望台の駐車場に行く途中で見たキタキツネ、帰りにも居たので写真撮影、すると何となく寄ってきた。
キタキツネは、北半球に広く分布するアカギツネの亜種。日本では北海道・樺太および周辺島嶼に生息する。 名称「北狐」は、1924年(大正13年)に岸田久吉が樺太に生息する本種に対して命名したものだが、その後に北海道と千島列島南部に生息する本種も「北狐」と呼称されるようになった。アイヌ語ではチロンヌプ(cironnup)、スマリ(sumari)、キモッペ(kimotpe)、フレプ(hurep)などの名称がある。

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「生態」
北海道の平地から高山帯まで、広く生息している。ネズミや鳥類、昆虫 などを主に食べる。秋には果実や木の実も食べる。土手などに穴を掘り、巣穴とする。哺乳類の中では珍しく雄も子育てを手伝う。雪解けが終り、暖かくなる頃に子供を産み、秋の終わり頃に子別れをする。

網走監獄(博物館)

五翼放射状平屋舎房
この舎房は明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型に代わって同45年に再建された舎房です。
中央見張りを中心に雑居房・独居房・鎧格子・矢筈格子といった独特の建築技法を採用し、昭和59年9月迄使用されていました。
明治獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては国内最大規模で、ことに木造では現存する我が国最北端の監獄として学術的に貴重なものとされています。

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厳寒の網走では暖房器具の設備は特に必要です。網走監獄においても開設当初は薪ストーブを使用して暖を取っていました。その後、時代と共に石炭ストーブ、石油ストーブ、スチーム暖房と近代的に整備されてきました。
第5舎58辰猟垢は下にはストーブ2台設置されておりました。

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網走監獄(博物館)

釧路集治監網走囚徒外役所正門
刑務所の門塀は受刑者の逃走を防ぎ社会治安を守ることが目的ですが社会の目から受刑者をとおざける人権尊重の意義もそなえていました。塀の造りは明治5年監獄則で石造りか煉瓦造りにすることが定められましたが監獄設置の永久性や仮設性、資材の調達の関係等地域の事情により造られていました。
網走の場合、創設当時の塀は木造で造られていました。

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これは樺戸(現在の月形町)集治監の懲罰房です。この房の立ち並ぶ周囲は木塀でおおい、その中を「闇堂」といい、房は外から光りが入らないように造られ「闇室」と呼ばれました。
獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯のみが与えられて入居させられました。

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網走刑務所

鏡橋
網走刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架かる橋を、収容される時、出所の時必ず渡らなければならない。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をねぐいおとす目的で岸を渡るようにと」誰言うとはなしに鏡橋と呼ばれるようになった。

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明治23年3月、原始林に覆われ笹と葦の茂るこの地に中央道路開削の拠点として釧路監獄所網走囚徒外役所が開設された。
以来百年、この地で罪を問われた人びとが厳しい試練に耐えて更正に励んだ。手錠に繋がれて鏡橋を渡った彼らが希望に燃え大手を振ってここから社会に復帰した。人びとは等しく犯罪と非行のない社会を望んでいる。罪を犯し非行に手を染めようとしている彼らの更正を願っている。ここには厳しいが美しい自然がある。厳しいが愛に満ちた人びとがある。
平成2年10月30日  開基100周年を記念して
網走刑務所長 本田孝信
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知床斜里駅

知床斜里駅は、北海道斜里郡斜里町港町17にある北海道旅客鉄道(JR北海道)釧網本線の駅である。
斜里は、アイヌ語の「シヤリ(ヨシの生えている湿地)」によるもの。また、「サルン、ペッ」の意訳である「芦川」や、「広々とした野原」を意味する「サライ」が変化したものなど諸説ある。

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