知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2020年10月

関ヶ原

ここ笹尾山一帯の石田三成隊六千余りは、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近の指導のもと、凄まじい死闘を展開しました。小早川らの裏切りは戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激変し、西軍の敗色濃厚となるや最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。

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竹矢来
竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことです。すき間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものは菱矢来といいます。
これは敵の容易な進入を防ぐのに利用したもので、三成は正面にこの柵を二重に巡らし、嶋と蒲生の指揮する二隊を前面と中間に配し、自分自身は警護の兵と山頂に陣取りました。

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居醒の清水

景行天皇の時代に伊吹山に大蛇が住み着いて旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は日本武尊
にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。
尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せ多くの人々の心配を除かれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで居醒の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子も爽やかになられました。
それでこの水を「居醒の清水」と呼ぶようになりました。

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醒井宿

古代からの交通の要衝であり、『日本書紀』の日本武尊伝説に登場する「居醒泉」(いさめがい)が醒井の地名の由来であるといわれる。豊富な湧き水があったことが、旅人の休憩場所として最適の条件であったことは間違いない。今も地蔵川の清らかな流れが町を潤している。

天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』によれば、醒井宿の宿内家数は138軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒で宿内人口は539人であった

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醒井宿は近江国坂田郡にあった中山道61番目の宿場(中山道六十九次)で、現在は滋賀県米原市醒井。2015年4月24日、「琵琶湖とその水辺景観− 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。


美濃不破関跡

壬申の乱(672)後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大法令(701年制定)によって東海道の伊勢鈴鹿関・北陸道の越前愛発関とともに東山道の美濃不破関「三関」として規定された。
不破関は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点であった。美濃国府の国司四等官が分番守固し、多くの兵士が配置されて国家の非常事態に備え、また、一般の通行を取り扱っていた。

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立哨台

これは戦時中火薬庫内の監視・警戒にあたる歩哨(兵士)が、昼夜を分かたず交代で立っていたボックスです。
かつてこの立哨台はレンガ造りの営門前をはじめ、庫内の主要な場所六カ所に設置されていて、火薬庫のシンボルともなっていました。
戦後、この立哨台と洞窟だけが解体を免れ当時を物語っています。

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岩倉山の鍾乳洞

東海の奇勝として知られる鍾乳洞、幾千万年の歳月を経た今も、生き続ける大自然が造りあげた鍾乳洞。夏は涼しく、冬温かい。年間を通して洞内温度15度。鍾乳石と石筍により生み出された造形美は、正に奇観を呈しています。

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伊吹山

伊吹山は滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)標高1377mの山である。
標高が低い山であるが、石灰岩層の山であることと地理的な環境条件などの要因で植物相が豊かで植物研究に貴重な山とされ、牧野富太郎らの多くの植物学者や採薬師により調査がなされている。日本では高尾山に継いで藤原岳と共に2番目に植物の種類が多い山であるとする調査結果がある。

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山麓から山頂にかけて様々な野草の群生地があり、コイブキアザミ などの9種の固有種がある。高山の高茎草原に見られる種も自生していて、おもなものとしてオオバギボウシ、カノコソウ、キバナノレンリソウ、クガイソウ、シシウド、シモツケ、シモツケソウ、ニッコウキスゲ、ハクサンフウロ、メタカラコウ、ユウスゲ、ルリトラノオなどがある。頂上の残雪表面では雪氷藻類が確認されている。

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秀吉公と石田三成公出逢いの像

長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩りの途中に観音寺(米原市)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、多きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持って行きました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公はさらに一杯所望したところ、今度は小さい茶碗に熱いお茶を入れて出しました。

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秀吉公はお茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として今も語り継がれています。
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