知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2021年01月

孝子物語

今から千二百年ほど昔、養老山麓に源丞内という貧しいきこりが年老いた父と住んでいました。ある日、源丞内が山奥に入り薪をとっているとどこからともなくお酒のにおいがしてきました。不思議に思い辺りを見回すと石の間から山吹色の水が流れ、手ですくってなめてみると本当のお酒でした。

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親思いの源丞内が毎日これをひさごに汲んで帰ると、お酒の好きな父は大変喜びました。水がお酒になったのは「親孝行のたまもの」とのうわさは、時の元正天皇にも伝わりました。そして年号を養老と改められ、水がお酒になったところは「養老の滝」と命名され源丞内は後に美濃守となりました。

養老の滝

養老の滝は「日本の滝百選」並びに環境庁の「名水百選」に選ばれている名瀑、名水です。又、水がお酒になった親孝行の「養老孝子伝説」など故事来歴のある優れた霊水です。

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奈良時代、元正天皇は「万病を癒やす薬の水」との報告を受けられ美濃の国多度山の美泉に行幸されました。史書「続日本紀」い記述されている元正天皇のお言葉があります。「自分で手や顔を洗ったら、皮膚はつるつると綺麗になり、痛むところも治った。また、この水を飲み浴した人は、白髪も黒くなり、はげた髪も新しく生え、見えにくくなった目も明るくなった。目出度いことです。この水は真に老を養う若返りの水です」
元正天皇は「醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年改め、養老元年と為すべし」と詔なさって、西暦717年に年号を「養老」と改められました。

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車田

車田は高山市と佐渡に残っており、全国でも珍しい田植えが行われる田です。その植え方は田の中心に杭を打ち中心から七本の線を出し苗三本を一株として一本の線に五株植え、あとはその外側に同心円状に植えます。飛騨民族村ではこの田植えの手法を後世に伝える為の車田を作り、また現在も市内松之木町では市指定無形文化財の車田が伝承されている。

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【飛騨民族村】

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【飛騨民族村】

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血取り場

飛騨地方は馬の産地でした。集落ではこのような枠を建てた場所に馬を集めて「削蹄」や「あごやき」を行いました。
削蹄とは爪切りであり、あごやきとは、馬の食欲がない時などに鉄棒を赤く熱し馬の顎を焼くことです。これを行うと年中馬が無病息災であるとして春秋の二回行うならわしでした。
これに似た行事で馬の顎や舌に刀針を刺して出血させるという方法があり、このことから「血取り場」と言われます。

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永瀬家(飛騨白川郷)

当家の合掌造りは五代目当主民之助により明治23年に建設され白川郷の自然に育まれた樹齢150〜200年の天然檜や樹齢300〜350年という栃・欅・桂等の巨木が使用されています。
五階建て合掌造りは3年の歳月と当時の金で800円、米百俵、酒十一石八斗と白川郷民の結の心で完成したと伝えられている。

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慈母堂(飛騨白川)

岐阜県大野郡白川村の荻町地区は世界遺産に登録されている「合掌造り集落」は大小100棟余りの合掌造りが数多く残り、また今でもそこで人々の生活が営まれている集落として知られています。

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慈母堂
   −慈母の児を見るが如く庇護を感じ腕に抱かれる−

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妻籠宿

妻籠宿は、中山道42番目の宿場で、現在は長野県木曽郡南木曽町蘭川東岸に位置する。
現代においては、隣接する馬籠宿(旧山口村(長野県)、現在は岐阜県中津川市)と馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所として訪れる旅行者が多い。

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妻籠宿は中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝であった。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人であった。

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江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入り口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形とは街道を二度直角に曲げ外敵が侵入しにくいようにしたものである。

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馬込宿

馬籠宿は、中山道43番目の宿場で木曽11宿の一番南の宿場町である。
かつては長野県木曽郡山口村に属したが、2005年2月の山口村の越県合併により岐阜県中津川市に編入された。1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したがその後復元され現在の姿となった。

石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた長野県側の妻籠宿(木曽郡南木曽町)とともに人気があり多くの観光客が訪れる。石畳の両側にお土産物屋がならび商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活とを共存させている。ほぼ中間地点に、旧本陣であった藤村記念館(島崎藤村生家跡)がある。

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中山道は、はじめ「中仙道」と書かれていたが本州の中部山岳地帯を貫いている道路ということから享保元年(1716)以降「中山道」と書き改め「なかせんどう」と読まれた。
この道路は、東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道とともに「天下の五街道」の一つといわれ、参勤交代の際、ここを通る大名は三四家と定められていた。

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