この処は排聖松尾芭蕉の生家である。芭蕉翁は正保元年(1644)ここで生まれた。父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に従い伊予国宇和島から名張に随従してきた桃地氏の女(むすめ)と伝えられる。
与左衛門夫婦には二男四女があり、長男は半左衛門命清、次男はのちの芭蕉翁で、幼名を近作、長じて宗房を名乗った。ほかに通称を甚七郎、別に忠右衛門といった。
芭蕉翁が19才の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎家の息主計良忠は蝉吟(せんぎん)と号して、北村季吟門に俳諧を学んでいた。俳諧好きの芭蕉翁は新七郎家の文芸サロンにも一座するようになり、めきめきと頭角をあらわした。その集大成というべきものは、後の処女撰集「貝おほひ」の版行であった。
与左衛門夫婦には二男四女があり、長男は半左衛門命清、次男はのちの芭蕉翁で、幼名を近作、長じて宗房を名乗った。ほかに通称を甚七郎、別に忠右衛門といった。
芭蕉翁が19才の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎家の息主計良忠は蝉吟(せんぎん)と号して、北村季吟門に俳諧を学んでいた。俳諧好きの芭蕉翁は新七郎家の文芸サロンにも一座するようになり、めきめきと頭角をあらわした。その集大成というべきものは、後の処女撰集「貝おほひ」の版行であった。