知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2021年07月

松尾芭蕉生家

この処は排聖松尾芭蕉の生家である。芭蕉翁は正保元年(1644)ここで生まれた。父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に従い伊予国宇和島から名張に随従してきた桃地氏の女(むすめ)と伝えられる。
与左衛門夫婦には二男四女があり、長男は半左衛門命清、次男はのちの芭蕉翁で、幼名を近作、長じて宗房を名乗った。ほかに通称を甚七郎、別に忠右衛門といった。

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芭蕉翁が19才の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎家の息主計良忠は蝉吟(せんぎん)と号して、北村季吟門に俳諧を学んでいた。俳諧好きの芭蕉翁は新七郎家の文芸サロンにも一座するようになり、めきめきと頭角をあらわした。その集大成というべきものは、後の処女撰集「貝おほひ」の版行であった。

横光利一

大正末期に発表した『日輪』や『頭ならびに腹』などによって川端康成らと供に「新感覚派」と呼ばれた。
その後、『機械』、『上海』、『紋章』、『家族会議』などを発表して昭和初期の文壇を代表する作家となったが長編『旅愁』が未完のまま病没した。
1911年、当時の三重第三中学校(現・上野高等学校)に入学し、卒業までの5年間をこの校舎で学んだ。 

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その青春の思い出や初恋の体験を小説『雪解』に描いている。幼年時代、大分県出身鉄道技師の父について転居を重ね、小学校時代の大半を母の郷里のき柘植(現・伊賀町)で過ごした。中学時代と合わせて約十年間過ごした伊賀について「私の故郷である」と書いている。

有恒寮

この建物は、嘉永七年の大地震後の安政(1855)に今の東土塀の中央付近に「思齊舎(しせいしゃ)」として建てられた建物を明治二十九年に移築したものです。

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藩校時代、この場所には「有恒寮(ゆうこうりょう)」という建物があり、講堂への出席は十六歳以上とされていたので、九歳から十五歳までの年少子弟の学寮として使用されていました。現在、部屋に揚げてある「有恒寮」の扁額は当時のものです。
一方、思齊舎は十五歳以上の子弟の学寮として使用されていました。

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伊賀上野城

慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。

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高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。

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藤堂高虎(1556〜1630)
近江国犬上郡で生まれ、浅井長政らに仕えたのち、織田信澄、羽柴秀長に仕え、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげ紀伊粉河で2万石の大名となりました。豊臣秀吉が宇和島7万石の領主としましたが秀吉の没後、徳川家康に重用され今治20万石の大名となりました。
慶長13年(1608)に伊賀、伊勢の安濃津に移封となり伊予の2万石と併せて22万石の領主となりました。
藤堂氏はその後、32万3954石にまで加増され大藩となりました。

排聖殿

松尾芭蕉生誕三百年を記念して建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺きである。
外観は、芭蕉の旅姿を建築に表そうとした建立の発意者川崎克氏の着想を、伊東忠太博士の指導により極めてまれにみる和風建築としてまとめたものである。

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上層の屋根は、芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で堂は脚部に、回廊の柱は杖と脚表現する、堂内には芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。

蓑虫庵

三重県伊賀における芭蕉ゆかりの草庵には瓢竹庵、東麓庵、西麓庵、無名庵、蓑虫庵があり後に「芭蕉五庵」と称しましたが唯一現存しているのが蓑虫庵です。
蓑虫庵は松尾芭蕉の伊賀上野における門人服部土芳(1657〜1730)の草庵で元禄元年(1688)三月に入庵しています。庵号は芭蕉が「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句を贈ったことによるものと伝えられている。

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土芳は伊賀蕉門の中心人物として、ここで芭蕉の偉業を後世に伝えるため、「三冊子」をはじめ「蕉翁句集」「蕉翁文集」「奥の細道」などを著しています。

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御城番屋敷

御城番に住む人々の祖先、徳川家康の先鋒隊と功名手柄を競った横須賀党の面々であり、田辺城主である安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣である。
紀州藩主の菩提寺である長保寺の住職海弁僧正ノ支援を受け、文久三年(1863)に松坂城の御城番として赴任した。
やがて訪れる明治維新、そして廃藩置県や徴兵制の断行による武士の存続基盤の消滅に対しても彼らは「苗秀社」を創設し、ともにこの激変の世を乗り越えた。

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この長屋建物は、松阪城御城番、四十石取りの紀州藩士二十人の組屋敷として、文久三年に建築された。

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本居宣長旧宅

この家は本居宣長が12歳の時から亡くなる72歳まで住んだところで、彼の祖父が隠居所として元禄四年(1691)に建てたものである。
宣長はこの家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり、歌会を開いたりした。二階の書斎は宣長が53歳のとき物置を、改造して設けたもので、床の間の柱に掛鈴を下げていたことから「鈴屋」と呼ばれている。

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鈴屋

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松坂城跡

松坂城は蒲生氏郷が天正十六年(1588)この四五百森に築城した平山城である。蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正十九年(1591)に服部一忠、文禄四年(1595)に古田重勝と城主が変わり、元和五年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢洲領(松坂・田丸・白子等)十八万石を統轄する城代が置かれてきた。

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城は北を大手、南を搦手とし本丸・二ノ丸・三之丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。
三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、二ノ丸には寛政六年(1794)に着工された御殿(別名・徳川陣屋)があった。

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旧飯南郡図書館

旧飯南郡図書館(松阪市立歴史民俗資料館)
資料館の建物は、明治43年の皇太子の飯南郡への行啓を記念して一般から寄付を募り飯南郡図書館として建設されたもので明治45年4月に開館した。開館当初は、本館、倉庫、新聞雑誌縦覧所の3棟あったが新聞雑誌縦覧所は昭和初期に解体された。

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本館は二階建てで、伝統的な和風の意匠をもち、左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成に特長がある。倉庫は本館の東に隣接して建つ二階建ての土蔵で漆喰壁を下見板で覆い、外観の意匠を本館と合わせているが高さを低く押さえている点が立ちの高い本館とは対照的になっている。
その後、背部を増築して松阪市立図書館として使用してきたが昭和52年に図書館が別の場所に新築移転したため松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。

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