知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

2021年08月

長野宿

長野宿は、もともと中世の国人領主「長野氏」の城下町として発達して、江戸時代になって藤堂藩の官道として整備され宿場としての機能が充実した。
藤堂藩の町方として扱われ、夫役等の諸役が免除された。

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道の両側に家が並んでいる集落で、殆どの家が屋号を持っています。かつては、問屋が設けられていました。

長野峠の手前に「義犬塚」がある。
長野氏の家臣の愛犬が、ある日突然主人に吠えかかってきたため、首を切り落としたところ、その首は背後にいた大蛇に噛みつき、主人の命を救ったと言い伝えられている。

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津偕楽公園

この付近は、もと「下部田山」あるいは「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていたといわれる。承応年間(1652〜1655)には藩士に功労をねぎらうために遊息の地として分け与えたという記録がある。11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は安政3・4年この地を家臣から買い上げて、ここに山荘造成を行った。「御山荘」と呼ばれたが、偕楽園の名称は、園内の亭舎に「偕楽園」の篇額が掲げられていたことによるもので「人々が偕(とも)に楽しむ」という意味からきている。
明治10年4月「三重県公園」として開設された。

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部田の常夜灯

   部田(へた)の常夜灯
この常夜灯は、もともと塔世橋の南詰めにあり「部田の常夜灯」と呼ばれ親しまれたものでした。後に四天王寺の薬師堂前に移され、その後、快楽公園内に移され現在に至っている。元治元年(1864)刊行の「五十世作楽(いせざくら)」に描かれた絵には、津の城下町の北の入口にあたる門のそばに、この常夜灯が描かれています。

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石柵で囲まれた中、石垣の上に春日型の常夜灯が建っていて、高さ3.5メートル、竿には「奉献」「天保元年(1830)庚申十二月建」と刻まれています。石でできた常夜灯にしては細工が細かく、狐格子や笠屋根の裏には垂木模様があり、中台と台座の正面・側面それぞれ異なった姿の龍が力強く浮彫りされています。又、台座の基壇の石も大きく立派です。基壇の側面には茶屋町中(栄町の一部)、西浦中(北丸之内の一部)などの地域の願主や世話人の名前が刻まれています。常夜灯を作った石工については「洞津、池宮信之 謹鑿」と刻まれています。

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明治5年9月12日、日本で初めて鉄道が開通し、蒸気機関車が走りました。大正8年には国産の電気機関車が生まれ、昭和7年ディーゼル機関車がうまれました。
この機関車は昭和16年2月1日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も風の日も32年以上走り続け、昭和48年9月17日、役目を終えました。その間に走った距離は205万キロメートル(地球約51周)になりました。

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上野英三郎博士と忠犬ハチ公

上野英三郎は明治4年、現三重県津市(伊勢国一志郡本村甲一〇九番屋敷)に生まれた農学博士です。
明治から大正期に日本農業の基盤となる水田の耕地整理を指導し大学はもとより全国各地で数多くの技術者を育成した農業土木分野の先駆け者でした。

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東京帝国大学で教鞭をとった博士は54歳の若さで亡くなりました。博士の飼い犬「ハチ・秋田犬」との生活は一年五ヶ月と短い間でしたが、人としての愛を注ぐ事により動物との紲「絆」が生まれました。その後、ハチが渋谷駅前で帰らぬ主人を待つ姿が、新聞で紹介され多くの人々に感動を与え「忠犬ハチ公」として広く世間に知られ映画化及び書籍にもなりました。

赤目四十八滝

赤目四十八滝は、日本に数多く存在する四十八滝の一つで、三重県名張市赤目町を流れる滝川の渓谷にある、一連の滝の総称である。また、谷は赤目四十八滝渓谷と称される。
滝のある渓谷はおよそ4kmにわたって続き、峠を挟んで香落渓へとつながっている。 渓谷は四季折々に楽しめるハイキングコースとなっており、紅葉の名所としても知られていて、秋には関西・中京方面などから多くの観光客で賑わいを見せる。

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渓谷とその周辺地域は野生動物と植生の宝庫である。特に渓谷は、世界最大級の両生類の一つであるオオサンショウウオの棲息地として知られ、滝への入り口付近には飼育・展示施設の日本サンショウウオセンターがある。

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その地勢ゆえに当地は古より山岳信仰の聖地であり、奈良時代には修験道の開祖である役行者(役小角)の修行場ともなったとある。また、地名「赤目」の由来は、役行者が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出会ったとの言い伝えにあるとされる。 また、役行者および修験道と関連するが、忍者の修行場であったとも伝えられている。

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キャンプ

例年であったが夏は娘夫婦と子供らと三重県の渓流にキャンプをした。この日は2011年8月14日で日帰りの川遊び、何と言っても川が綺麗なのが良い。この日は三重県の青田という山間の地域、

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また、コロナ感染者が増えて8月2日から緊急事態宣言、孫が免許を取ったので奈良〜和歌山〜三重とドライブの予定をしていたが中止とした。

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名張城下町

名張の城下町の形成は、1585年に伊賀の国主となった筒井定次の家臣であった松倉氏が名張地区の中央台地に名張城を築いた事から始まります。
その後、1636年伊予国今治から来住した藤堂高吉により本格的な城下町建設が行われました。名張城の敷地に領主の名張藤堂家邸を配置し、その下を流れる川を「城下(じょうげ)川」と名付け、外堀の機能を与えています。また、伊予から連れてきた多数の家臣と商人、職人を町に居住させました。

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外敵の侵攻を阻む戦術から、鍵型に屈折した町筋や用水路をつくり、御殿がある高台の斜面には竹藪を張り巡らすなど、小規模ながら城下町(陣屋町)としての形態をもつ町ずくりがなされました。
現在も、藤堂家邸の一部や御殿の正門である太鼓門、城下川、鍵型の町筋や用水路、竹藪や石垣の跡など、往時の面影が残ります。

青山高原

青山高原は、布引山地の一部で三重県伊賀市東部から三重県津市西部にかけて広がる高原である。
室生赤目青山国定公園の東部に位置し、布引山地の主峰笠取山から南北約10kmにわたって広がる標高700〜800mの高原である。
起伏はゆるやかであるため、ハイキングのみならずドライブ・ツーリングに最適であり、また四季折々の草木や冬期の樹氷など、四季の移ろいを年中楽しめる高原である。


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高原全体に風車(風力発電機)が91基建設されている。
頂上付近にはレストハウスや公園があり、伊勢湾一帯を見渡す事が出来る。

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名張藤堂家跡

名張藤堂家は織田信長の重臣丹波長秀の三男で藤堂高虎の養子となった高吉に始まる。寛永13年(1636)以来名張にあって、二万石を給され屋敷を構えた。建物は宝永七年(1710)の名張大火で再建され、明治初年にその大部分が失われたが「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向きの一部と、正門が残る。

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