写真眼下右にお助け茶屋、左は資料館
野麦峠


政井みねの碑
工女の模範となって、百円工女(年収が百円を超える)となったみねは重度の腹膜炎に犯されていた。
知らせを受けた兄・辰次郎は松本で入院する事を勧めたが、自らの死を悟ったのか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄のことばを断った。
やむなく辰次郎はみねを背中に背負い飛騨へ向かう事とした。
多くの女工が息を引き取った野麦峠の茶屋に辿り着くと、みねは喜びながら「あゝ、飛騨が見える」と言い残し息を引き取った。
1909年11月20日午後2時、わずか20歳の死であった。