貞享元年(1684年)10月21日、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
幼名 「源六」 「新之介」   元服して「頼方(よりまさ)」と改める

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡3万石を賜り葛野藩主となる。
元禄13年(1700年)、越前丹生に向かう。
葛野藩は和歌山藩の支藩であるため、実際には家臣を送って統治するだけで頼方は和歌山城下に留まっていたと言われているが、

-

宝永2年(1705年)、第5代紀州藩主となり「吉宗」と改める。

享保元年(1716年)、八代将軍となる。
享保の改革、文武奨励、洋書の一部輸入許可、法令整備、新田開発等を推進、大奥の整備、目安箱の設置、米価対策等、幕府中興の英主といわれ功績は高く評価された。

一方、増税政策によって農民の生活は窮乏し百姓一揆の頻発を招き、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため経済や文化は停滞したといわれる。

延享二年(1745年)、61歳にて将軍職を退き長男家重が九代将軍となる。