佐久間勉は明治12年9月13日滋賀県北前川(当時は福井県若狭地方は滋賀県に含まれていたと説明を受けた)の佐久間家次男として生まれた。
幼少の頃は小学校まで往復六里の道を歩いて通い、中学校時代には教科書はすべて友人から借りて一字一句丁寧に筆写した。
明治31年12月、広島県江田島海軍兵学校に入学、明治42年12月第六潜水艇の艦長を命ぜられる。

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佐久間艦長生家

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明治43年(1910)4月15日、佐久間艇長は国産初の第六潜水艇にて13名の部下とともに山口県の新湊沖において半潜航訓練中不測の事故により沈没し浮上することはなかった。

艇のなかで艇長以下14名の艇員がそれぞれの部署において最後まで力を尽くし職分を全うした姿のまま引き上げられた。

又、潜望鏡より入る微かな光の中で小さな手帳に書かれた佐久間艇長の遺書が上着のポケットから見つかった。
ここに、父母を敬い、師の恩を忘れず、息を引きとる間際においてもなお部下の家族のことを思いやる優しい人柄あった。

艇長は苦しい呼吸のなか、司令塔にある小さなガラス窓から射し込む微かな光を頼りに遺書を書きつづった。
第一に、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせるに至った責任を謝し、艇員一同が職分を全うしたことを述べ、この事故によって潜水艇の発展研究に支障のないように更に研究してもらうべく、沈没の原因や海底に沈んでからの状況が詳しく記されていた。


与謝野晶子は、日露戦争に従軍した弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」(明治39年9月)を発表し反戦平和の歌人といわれています。
その与謝野晶子が、第六潜水艇遭難の一年後に「佐久間大尉を傷む歌」として挽歌を15首発表しています。
     海底の水の明かりに認めし永き訣れのますら男の文
     水漬きつつ電燈きえぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ
     やごとなき大和だましひある人は夜の海底に書置を書く