松倉家は代々、郡山筒井家の家老の家柄であった。筒井順慶の養子定次に仕えた松倉豊後守重政は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに二十七歳で出陣し武勲を挙げ、慶長十三年(1608)七月、徳川家康の命により一万石余の大名として大和五條の二見城に入城した。

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備考
松倉重政は直ちに城下の整備に取りかかり、諸役免許の特権を与えて、近郷近在より九十三軒の商家を集め二見村と五條村を結ぶ伊勢街道沿いに新しい町「新町」を創設した。
松倉重政が整備した新町は二見村、五條村、須恵村とともに近世商人が活躍する繁華な町として発展し、町民自治の伝統がこの新町で育まれた。

元和元年(1615)大坂夏の陣で、大坂勢郡山城攻撃の知らせを受けた重政は七十騎を従え郡山に駆けつけ大坂勢を撃退した。夏の陣最初の武功に喜んだ家康は重政に黄金を下賜した。翌年、重政四十三歳の時、幕府の命により、肥前国有馬日之江(島原)に四万三千石の大名として転封された。