近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれ幼名は鶴千代と名付けられました。

彼は弘治2年(1556)、名門蒲生家の跡取りとして誕生し13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られ14歳の氏郷は信長の部下として伊勢大河内城の戦に初参戦し大きな手柄を立てた氏郷に対し、信長は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報いました。

日野城(中野城)跡

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日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもとで学んだ城下町づくりの手法を取り入れ、領内の行政、経済の改革に着手、日野は大きな繁栄の時代を迎えました。
そんな彼のもとに、信長絶命の悲報が届いたのは天正10年(1582)のこと、氏郷は信長一族を守るため、日野城に立てこもりました。しかし光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結し秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北畠氏と伊勢で激突、次々と敵城を攻略し伊勢を平定しました。この功績により、氏郷は伊勢松が島城主として転封。さらに会津に移り、92万石の大名となりました。

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蒲生氏郷は多くの逸話が残されている。
※ 戦国武将としては珍しく側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の遠因となった。
※ 家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったとされる。
※ 茶湯に深い理解があり、南化玄興の計らいで谷宗養・里村紹巴、その後、千利休に師事し、利休七
哲の一人に数えられており、鶴ヶ城にある茶室「麟閣」は、利休切腹後に会津に蟄居した利休の子・千少庵からもらったものとされている。又、鶴ヶ城の庭でよく茶会を開いていたとされ、その茶会では家臣のみならず身分に関係なく農民や商人達も招いて茶を振る舞ったとされている。
※ 六角氏が滅亡した後、父の賢秀が鶴千代(氏郷)を連れて信長のもとへ臣従の挨拶に行った際に鶴
千代を見た信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」と言い、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をしたという
※ 氏郷は財産を惜しまず家臣に与えた。彼の言葉によると「家臣にとって俸禄と情は車の両輪のような
もの、両方を上手く転がしていかないと家臣は付いてこない。禄を多くしても情をかけなかれば家臣は主家を離れる。 情ばかりかけても給与を配慮しなければこれも同じことであり、どちらが欠 けても家臣の心は主から離れるものだ」という。
※ 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。しかも氏郷自らが煤で真っ黒になりながら薪をくべるほどの律儀さであり、この時、風呂に入っている家臣に、「命がけの働きに褒美を出してやれなくてすまない、こんなことしかできないが許してくれ」と言ったという。家臣達は氏郷の部下想いに改めて涙を流したという。又、秀吉の御伽衆になった元主君の六角義賢にも分け隔てなくこの風呂に入れたという。この風呂は「蒲生風呂」といわれた。