照蓮寺は戦国時代、曹洞宗仏通寺派で定林寺と呼んだ。鎌倉幕府から備後沼田荘の地頭を補任された小早川遠平の子孫は、やがて安芸都宇庄・竹原荘も治めるようになる。
小早川家では此の寺を学問所としていて、代々子達の教育の場としたと伝える。定林寺が出てくる最も古い文書は、毛利家関係文書の「萩藩閥閲録三」に「康安元年(1361)十一月九日・寄附 都宇庄濱新堤(定林寺新開発)田地 事 右限永代、所奉寄進也」がある。

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朝鮮の鐘

照蓮寺には国重要文化財と指定された高麗時代の鐘がある。銘にある峻豊四年は日本暦で應和三年(963)にあたる。高麗第四代の王光宗は昭大王と呼ばれ、二十六年間在位し其の間宋国建隆元年を高麗峻豊元年に替え、一時期峻豊年号を用いた時代であった。

峻豊年代は僅か五年間という短年代であったため峻豊銘のある鐘は、半島に残っている二個を合わせ僅か三体という。日本国内にある朝鮮半島鐘で古いものは島根県安来市雲樹寺の八世紀前半とされる新羅時代のもの、次いで福井県常宮神社に新羅時代833年のものがある。古さに於いて照蓮寺は六番目か七番目となる。“か”と云う表現は岡山市観音院の鐘は十世紀年代とされているが照蓮寺鐘963年の前後何れか判断が出来ないからである。明治四十三年、照蓮寺の鐘は国の重要文化財に指定された。

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備考
天文十三年(1544)、安芸国吉田の毛利元就は十三歳の第三子徳寿丸を、安芸竹原小早川家の継嗣とし竹原庄の木村城に入らせた。徳寿丸はのちに名を隆景と改め、天文十九年(1550)には本家筋に当る隣接沼田小早川家に迎えられ、沼田と竹原両家をあわせ継ぐこととなった。小早川隆景成人してからは、知略・武勇を兼ね備えた武将として活躍し、早くから瀬戸内海の戦略的重要性を睨み、永禄十年(1567)、国内では珍しい、海に突き出た三原城を築いた。
織田信長の石山合戦の終るまえ天正五年(1577)頃からは、瀬戸内海の制海権すべてを毛利一族が掌握し、内海海賊衆の雄備後国因島村上・伊予国能島村上ら水軍を勢力下に収めた。
豊臣秀吉の天下統一後は徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元と並んだ豊臣政権五大老の一人となる。
慶長二年(1597)六月、備後三原で隆景没するの報に接した秀吉は、「この人、唯毛利家の蓋(がい)なるに止まらず日本の蓋にも余りある方なり」と涙を浮かべながら感に耽ったという。