赤穂城下町は、熊見川(現千種川)の河口にあることから河川海上交通の拠点となり、江戸時代には大規模な船着場が造られました。元禄期頃の城下を描いた「播州赤穂城下図(浅野家家中図」には「御船入」と描かれています。

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絵図によると、船入は東西約100メートル、南北約60メートルの広さをもっており、北側の階段状に描かれているところ(雁木)が船着場であったと推定でき、船入の北側には船手奉行や水主(船の乗組員)、船頭の屋敷が置かれ、南側には水軍の駐屯所とするため随鷗寺と遠林寺が配置されるなど、防衛にも力が入れられていました。

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船入には、千種川を往来する高瀬舟や海上輸送のための廻船が出入りし賑わっていました。江戸時代後期(1800年頃、森時代)になると船入は埋め立てられ田畑として利用されました。