貝塚寺内町の起こりは、応仁年間に蓮如上人が逗留したと伝える庵寺にはじまります。
 天文年間に、この地に集まる一向宗門徒が相談して、京都の落人である右京坊了珍を紀州根来寺から迎え、無住であった草庵を再興したといわれています。

浄土真宗寺内町として戦国期に成立し信長と本願寺との石山戦争により灰燼に帰した後、真宗寺住職家の支配の下、在郷町として江戸期に繁栄した。泉南地域で最も古い歴史をもち、江戸期の町屋が数多く現存する。

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感田神社

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感田神社境内に残る環濠跡は、かつて寺内町にめぐらされた濠の面影を残す唯一の遺構とされている。

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「信長との石山戦争が始まると、貝塚寺内町は石山寺本願寺に呼応し、雑賀衆と協力してその支城としての役割を果たすとともに、毛利氏や瀬戸内の海賊衆によって運ばれる兵糧米の運送にあたります。
天正5年(1577)には、織田勢の武将織田信忠の攻撃をうけ、貝塚道場はじめとする貝塚寺内町は、すべて焼き払われ壊滅してしまいます。
天正8年(1580)、石山本願寺はついに信長の軍門に下ることとなり、10年にわたる石山戦争が終結し、本願寺は石山から紀州鷺森へ退くことになります。」