尼僧大石順教は、もと大阪堀江の名姑で本名を大石よねと言ったが明治38年舞踊の修行を指導していた養父中川萬次郎の狂刃により6人斬り事件の巻き添えを受け17歳の身で不幸にして両腕を切り落とされた。
だが、苦難の道を乗り越え、忍の一字に徹しカナリヤがくちばし一つで雛を育てている様を見て、両手のないまま口に筆をくわえる事を開眼し精進を重ねた。

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今兼好と称された藤村叡雲に師事し国文学と和歌を学び、また、若林松渓画伯の下で日本画を修行する。昭和8年萱野正之助・タツ夫妻が菩提親となり高野山天徳院金山大僧正を師として得度し、法名を順教と改める。
以来、しばしば九度山萱野邸に寄留し数々の書画を書き残す。