島崎藤村は明治33年4月初旬、旧師木村熊二の経営する小諸義塾に英語・国語の教師として赴任し、巌本善治の媒酌により、函館の秦冬子と結婚し小諸町馬場裏に新家庭をもった。

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明治33年4月、「旅情」(小諸なる古城のほとり)を雑誌「明星」創刊号に発表
       5月、長女緑が生まれる
明治34年8月、「落梅集」を刊行、 翌年3月、次女孝子生まれる。11月、「旧主人」「藁草履」を、以
          後、「爺」「老嬢」「水彩画家」「椰子の葉陰」等を発表
明治37年4月、三女縫子生まれる。
明治38年4月、小諸義塾を退職し7年間にわたる小諸生活に別れを告げ家族と上京する。
明治39年3月、「破戒」を自主出版する。