明治40年頃の和歌山県河根村は、紀和鉄道の開通によって高野参拝客が通らなくなった上に、日露戦争の後で大変貧しく村民の多くは税金さえ納められなくなっていました。
若い人たちは参拝客で賑わう高野口から椎出街道へ出稼ぎに行くために人力車やカゴを担いで峠を登り、田畑の畔道や山道を通って九度山や赤瀬へ出てましたが、その土地の帳場(組合)の仲間に入れて貰えず、こぼれ客を拾って賃金を稼いでいました。

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こんな苦しい村民を見かねた十一代村長刀袮富太郎は、かべ山と言われた松尾道を開こうと村民に呼びかけ、私財をなげうって無給で難工事を続けました。
全財産がなくなった刀袮富太郎の後を継いだ十二代村長中川泰次郎の奔走により明治43年完成し、当時刀袮道と呼ばれ、その後の河根村の発展に寄与しています。

この日は、紀伊神谷駅から京大坂道を下り、河根を左に丹生川沿いに九度山駅を右に見て紀の川沿いで昼食にして、橋本駅から輪行して帰りました。