北條早雲は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北條氏五代の祖である。
『北條記』によれば、明応4年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角に松明を結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後、小田原は、96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し東国一の都市に発展した。

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終生伊勢性を名のっていた早雲の出生地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢とも云われている。一時、室町幕府に随身していたが、のちに駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで、卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。
そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町造りを進めたという。小田原城には嫡男氏綱を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りを固めていたが、永正16年(1519)8月15日、88歳の天寿を全うして韮山に没した。戦国武将としては長寿であり、北條姓は二代氏綱から用いられた。

早雲は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えているが伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一箇条」において、早雲は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。