菅公頌徳詩(かんこうしょうとくし)

『 冤罪左遷されて一身を虔(つつし)み詩を詠じ学を研きて天真を養う
                 誠忠滅せず志を埋むと雖ども遺徳長えに伝う文教の神 』

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菅原道真
長岡天満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられていまず。
菅原道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇多天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣にまで登りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は道真の出世を快く思っていませんでした。

昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き入れ、道真に九州・太宰府への左遷を命じました。

                    −東風吹かば匂いおこせよ梅の花
                                  主なしとて春な忘れそ−