当時の方広寺敷地は広大なもので、妙法院や現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、三十三間堂南に遺る太閤塀や南大門(秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

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高さ4.2メートルの大きな梵鐘の銘文の一部に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後の方広寺と豊臣家の数奇な運命が始まるのはあまりにも有名な歴史の出来事です。「国家安康」「君臣豊楽」を「家康の名を引き裂いて呪詛するもの」 といいがかりをつけたされる。

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この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19メートル)の大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われ、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠」で造られた(『太閤記』)。この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。