下田街道は、東海道、三島宿の三島大社を起点に、伊豆の国市韮山・大仁・伊豆市湯ヶ島を通り、天城峠を越えて河津町梨本に至り、更に小鍋峠を越え、下田市箕作・河内を経て下田に至る通計十七里十四町二十一歩の口伊豆(北伊豆)と奥伊豆(南伊豆)とを結ぶ幹線道路であった。江戸時代には下田路と呼ばれた。

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天城山が伊豆を南北に分断し、北伊豆から隔てられた南伊豆では物資の輸送は海運に依存していたため、陸上路である三島−下田間の下田街道の整備・発達はかなり遅れたと考えられている。人馬の継立場が史料面から確認できたのは江戸中期の1742年(寛保2年)である。江戸幕府成立後、大半が天領だった伊豆国だが、1697年(元禄10年)を境に旗本領が増加し、のちに沼津藩領、掛川藩領、小田原藩領が各地に置かれたことから、江戸中期頃から通行が増加し、継立場が設置されたと考えられる。 幕末、通行人の数が増大し盛況を呈したが、沿線の村々には人場継立等の負担が重くのしかかり、明治時代に至っても多大な借入金に苦しんだ。大正から昭和初期に入っても、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心であった。

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