伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の12代教如が創建し、本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築 したものと伝えられ、大正4年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。
ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。

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幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊200名が伏見京橋に上陸、ここに伏見御堂を宿陣とし、翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。
そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2年に老朽化のため取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。